縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマの論点】 イサ イセ イサワ 或る日の編集会議にて <91号 平成29年6月>

 当誌の編集会議は毎月、明治記念館「金鶏の間」で開催していますが、議論百出、汲めども尽きぬホツマの魅力を語り明かします。前回の話題は本号で焦点を当てた大御神とイセ、イサワの謎解きでした。

 イサワの「辞解」は那辺に、との問いにS氏は、「イは【風】の象、サは【南】、故に南より神風吹く聖地を意味しよう」と持論を開陳。応えてK氏も、「イサ川は、神山筑波を南に眺める現在の桜川。両神のイサ宮もその近辺であろう」と同意。我が意を得たりとS氏は、「石和温泉の湧き出た石和(イサワ)も霊峰富士からの南風の地。イセのイサワは、ここから宮遷ししたのではないか」との新説。

 主筆のI氏は、「アマテルのヤスクニ宮は、ハラミ山を南(サ)に遙拝する富士北麓にあったと考えるが、イサワは、サコクシロウチに近接する地であろう」と述べ、H氏の「やはり伊雑宮でしょうか?」の問いに、「いや、彼処は磯部の地。ヤマト姫が猿田彦から引き継ぎを受けた後、事成って、余生を過ごした宮ではなかったか」と異色の新説。『延喜太神宮式』に、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載され尊重されるのは姫神への敬慕の名残なのでしょうか。

 では、本来の伊雑宮は一体何処か、の謎解きに今度はH氏が、「オシヒト皇子がお生まれになった【フジオカミミのオシホヰ】が、外宮の藤岡山、現在の上御井神社の辺りであるとすれば、雄略治世の遷座を遙かに遡る「宮」の存在が窺える。即ち外宮の元はイサワ宮でなかろうか」と驚きの新着眼。境内別宮の多賀、風、土の三宮も「イサ、サ、ワ」を暗示するようにも、、、

 興味を示したI氏の「イサワの地からほど近き処に大御神の禊ぎの地、ミモスソの聖地があるはずだが」との投げ掛けに、「瀧原宮かな?」「いやいや、内宮御手洗場の瀧祭神の辺りは五十鈴川が狭くサクナダリだよ」と、論壇「風」発でした。

 編集会議は、自由に誰でも臨席可能です。購読者のあなたも「ホツマの論点」に一緒に熱中してみませんか。今号から、読者のお便り欄も拡充していきます。

+++++++++++++++++++++

アマテル大御神が後半生を過ごされた「イサワのみやこ」の比定地は、いつも議論が白熱します。小誌の編集会議では、定番のテーマであり、令和6年今月4月の編集会議でも、その話題で盛り上がりました。

この小論考でのH氏とは、筆者のことですが、当時直ぐ近くまで海岸線が迫り、船着き場としても、また乗馬による陸路においても要路に位置していた今の外宮(とみや)は、タカマの地にふさわしい「神風の伊勢」の地です。本号では、いせ・いさわについて様々な角度で各人が見解を述べました。
ちなみに、表紙の美しい湾岸画像は、的矢湾です。「ま・と・や」は、ヤマトの順不同ですね。

ホツマツタヱも紹介されています↑

(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)

とらさん原田峰虎|note