縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマの論点】 富士山と日月の神々 <92号 平成29年8月>

 霊峰冨士の登拝シーズンもまもなく終わります。金剛杖を手に日本一の山頂を目指す登山者たちは、「信仰」として山を登っているわけではないのですが、大多数の方々が目的とするひとつは「ご来光」。(不思議なことに)ご来光に自然と手を合わせるのです。山頂には浅間神社の奥宮がふたつ鎮座していて、そこに到達した登山者たちは、やはり「せっかくだから」と順番を待って参拝し、神妙に手を合わせます。

 日本人は往々にして頭を垂れる対象の神仏に対して、その「正体」を頓着することがないのですが、「冨士の大神」についても、それ以上を知ろうとすることは殆ど無いようです。

 富士山には現在四つの登拝道がありますが、登山口にはすべて浅間神社が祭られています。ご祭神を観ると、吉田口の北口本宮が、木花開耶姫命彦火瓊瓊杵命大山祇神、須走口の東口本宮が、木花咲耶姫命大己貴命彦火火出見命、御殿場口の新橋浅間が、木花咲耶姫命瓊瓊杵尊天照大神富士宮口の富士山本宮(山頂奥宮も)が、木花之佐久夜毘売命(別称:浅間大神)です。(ちなみに吉田口山頂の久須志神社の祭神は大名牟遅命と少彦名命

 「ソヲ高千穂」にお隠れになったニニキネ大神と向き合い「アサマカミ」として冨士の峰洞にお隠れになったのは「アシツ姫すなわちコノハナサクヤ姫」ですから、ほぼホツマの古伝を反映したご祭神となっていることが判ります。

 しかしながら、(浅間神社の社神格でなく)霊峰富士そのものの御神格としては、太陽神、もしくは日月の神としていにしえより認知されているようです。仏説では大日如来として遇されます。

 「日月の神」というのが、ニニキネとアシツ姫のメヲを象徴するのか、アメミヲヤ神の左右の目(日月)として誕生したアマテル大御神を象徴するのか、はたまたこの峰に登拝して日嗣の皇子誕生を祈願したイサナギとイサナミの両神を象徴するのか、議論は分かれるかも知れませんが、いずれにしても子宝繁栄・万民豊楽をその御神格の「心願」と理解することは、間違いないはずです。万物が豊かに成熟し、実りの季節を待つ夏の季節に、「少子化」に悩む我が国の行く末を憂い、ハラミの霊峰に手を合わせることは意味深いことと存じます。

コノハナサクヤ」を「子の華咲く」と解く駒形さんの「ニニキネ大神」連載に、神々の真意をすくい取っていきたいと思います。 

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今月末の4月29日には、コノハナサクヤ姫を祭る富士吉田の御胎内神社で例大祭が開かれます。富士講行者である筆者も供奉して神事に奉仕いたします。いよいよ不二山の季節の始まりです。

この論考は、不二山のご祭神について考えたものです。コノハナサクヤ姫と見ることが一般的であり、ホツマ的にも間違ってはいないのですが、さらにその奥に祭られているご祭神がいらっしゃいます。神仏習合は「隠れホツマ教」であるというのが筆者の見立てですが、習合して祭られる対象物の傾向にも、謎を解くカギが秘められています。

年明け早々に大往生された大先達齊藤行者のお焚き上げ。↑ 筆者は、先達の右後ろに供奉していました。この時すでに90歳。往復の山道ではわたしが大先達を負ぶってお運びいたしました。今頃は天界で、歌とお酒を楽しんでいらっしゃることでしょう。

 

(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)

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