縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊼「いとり」 <133号 令和6年6月>

 ホツマツタヱでは聖なる神獣がいくつか登場しますが、「いとり」はその最たるものです。「鳳凰」と後に漢字書きされる聖鳥(瑞鳥)であり、手塚治虫さんの「火の鳥」も原型はたぶんこれでしょう。現行一万円札の裏面のデザインは、宇治の平等院鳳凰堂のものが描かれています。

 シナでは、麒麟、亀、龍とともに重要視され、「鳳」は雄、「凰」は雌、と理解されているようです。また、「朱雀」として南方面を司って、「天之四霊」のひとつとされています。

 ホツマツタヱでは、丹霊鳥と白霊鳥の二種が登場します。赤いイトリと白いイトリです。

『孕みの帯は カツラキの 世嗣社に 御胤 祈る』16文
『時に天より 丹霊鳥の 一羽落つれば 天つ宣 これは息吹の 成る紅葉 化けて葛城 イトリ山』16文
『羽先 見れば 二十四筋 数 備われど 常 有らず 諸鳥 見れば 十五に割け』16文
『時に骸 なるイトリ 出づれば諸と 御陵の 御棺を見れば 冠と 笏と御衣裳と 留まりて』40文
『空しき殻の 白イトリ 追ひ尋ぬれば 大和国 琴弾原に 尾羽四枝  置きて河内の 古市に また四羽落つる』40文
『其所此所に 成す御陵の 白鳥も つひに曇に 飛び上る』40文
『その夜の夢に ツシマ杜 白霊鳥なる ヤマトタケ』40文

 とあるように、赤いニイトリは、トヨケ神の八千禊ぎの場面で、白イトリは、ヤマトタケに関連して登場します。

 「はらみ帯」とあるように、子宝安産に関わる霊力をもち、「ヒタカミに鶴のツガイを奉る者があった。羽先を見るとやはり二十四筋なので、その羽を撚り正し、雄鶴の羽を経糸に、雌鶴の羽を緯糸にしてケフの細布を織り、それで四十八備わるはらみ帯を作った。」

 故に、「鶴」をイメージさせるのですが、「フクロウ」と解釈する研究者もあります。トヨケ神を智慧の神「梟」とみる見方もあります。白イトリは、鶴のほか、白鳥であったり、白鷺であったり、白くて優雅な鳥をイメージすることも多かったようです。

 イトリは、御神輿の頂上に鎮座します。古代ヘブライの「契約の箱」に乗る二対のケブリムは、翼のある天使(知恵を司る)と見做されますが、神輿では二対となることはありません。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 「聖獣」「神獣」として、獅子や、雄牛、一角獣、あるいは、蛇などが世界中では馴染みですが、日本には、それらの聖獣信仰はありません。「狛犬」とか「天神さんの牛」があるじゃないか、と思いの方もいらっしゃるかも知れませんが、ホツマツタヱの記述を読むなかでは、「狛犬」の存在や「天神牛」的な聖なる牛、というものは出てきません。(カラ国から来日し、帰国後にミマナ国を建国したツノガアラシトの逸話には不思議な牛が登場しますが)
 いわゆるドラゴンと近似する「タツキミ=龍君」の存在については、かなり詳しく語られていますが、悪獣的な性格は「タツキミ」とは無縁で、むしろ「オロチ」がドラゴンに近いようです。
 我が国で、最も聖なる神獣は、やはり「鳥」です。
 天意を告げるのも、民の真意を伝えるのも「鳥」であり、偉大な人物は、神あがると鳥となります。「イトリ」と呼ばれる鳥です。御神輿に乗る、あの鳥ですね。
 獅子や聖牛信仰が、古代縄文に無かったことは重要な観点です。それは、現代日本文化に連なる古代基層文化には、オリエントやメソポタミアの影響は及んでおらず、独自のものであり、その独立性は今日まで継続していると観ることが出来るエビデンスとなるからです。

スサノヲ=雄牛信仰とは、都市伝説界隈の定番だが、そのはじまりは紀元後のこと

日本紀成立後に、スサノヲ=牛頭天王という説が成立していった軌跡を解読 ↑

手塚治虫にとって、火の鳥は、宇宙生命体=天御祖神 だった ↑

「イトリ」の西洋的理解は、こんな感じ ↑ 「縄文的とこわか」が原像だ

宇治平等院は藤原家にとっての伊勢。今回の新札万券から鳳凰を排除したのは何故

チョイずれるけど、面白かった。テキヤは雄牛信仰なわけだ ↑

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊻「こう」と「みやこ」 <132号 令和6年4月>

縄文の教え88 より

 

「タカノコウ」という言葉が、序章や天巻に出ます。

『皇子オシホミは ヒタカミの タカのコウにて 国治む』序
『タカのコウ 壺若宮の(略) 占の吉き日に 渡ましの 君はアマテル 代嗣御子』11文
『アマテル皇子の ヲシホミミ 天津日月は タカのコウ タクハタ姫の 御内入り』12文 他

 この「コウ」は、後代に「国府」と漢字表記される「国の中心地」という意味です。本来の意味は、「コウ=首/頭」であり、「こうべ=かうべ=頭部/首部」となります。ですから、「首都」でもあり「京」でもあります。「きょう」と「こう」の音の近似もあります。

 タカノコウは、ヒタカミ国の首都です(中央政府でもある)が、近江の宮を遷したものでもあります。つまり、「タカノコウ」は、「多賀京」あるいは、「タガ」の意味を汲んで「治闇京」と漢字翻訳することが出来るかも知れません。もっとも好字を使えば、やはり「多賀京」が、ふさわしいようにも思います。

 さて、「みやこ」も国の中心地です。「たかまとみやこ」を辞解のその⑤93号で、書き始めたのですが、前編の「たかま」で止まっていましたので、「みやこ」を考えてみます。

 「みやこ」は「宮のある処」という意味と宮の中でも最上級「九/コ」であるという意味が重なっているようです。国守の政庁、地方の政都も「みや」と呼称していたので、皇君の坐すところを「みやこ」と特別呼称していたのでしょう。

 ここで、琵琶湖の「多賀宮」の変遷を観ると、

両神が「初の宮」とされた多賀宮は、「たかのみや/たかのみやこ」
② オシホミミが執政された宮は「たか若宮」
③ 後にカモヒトが再建された宮は「たかのみや(こ)」

と呼称されていています。

 実は、「みやこ」の用語は、人の巻からはよく使われるのですが、天地巻では、両神とアマテルにしか使用されていません。

 これはつまり、アマテル大御神の存命中は、「みやこ」=「高天原」であり、あくまでも大御神が坐します都だけが、特別に至上であるという意識が働いていたからではないかと思われます。オシホミミは祖父神と父神に遠慮して「コウ」を宮の名前としたのですね。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 「こくぞう(国造)」という古代官僚制の役職名があり、古代史の定説では、ヤマト王権の地方行政単位であるクニをとりまとめる古代豪族から任命されたと説明されており、神武朝に最初の設置記述があるとされます。
 しかし、ホツマで自明なようにこれは「クニツコ」という官職であり、神武以前から設置されており、しかもその元には「ヨコベ・ツウジ」という地方長官と地方監査官という中央統治機構の勅任官職がいたことがわかります。
 「国府」は、令和の現代も各地に地名として残る「地方国の中心地」です。しかし、「日本国=ひのもとやまと」の中心地である「みやこ」という呼称と、「地方国」の中心地である「こう(国府)」とは、微妙に差異のある「こう(首都)」という「政事の中心地」が存在していた一時期がありました。一時期といっても、実に長い年月でした。(トヨケ神の綾神上がり後)アマテル大御神が存命中は、アマテル神の鎮座地(居住地)が「タカマ」であり、「=みやこ」であり続けたからです。

相模国の「国府祭り」↑ 古色豊かで趣がある

豊川国府夏祭り ↑ 豪華絢爛で楽しそう

昭和4年の 府中 くらやみ祭 ↑

今年完全復活した くらやみ祭り ↑ やはり日本は祭りの国だ

イベントにすれば盛り上がるというものぢゃない、、、 ↑ 

 

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊺「あまさかる」 <130号 令和5年12月>

 アマテル大御神の正后セオリツ姫は、イミナ(本名)をホノコと云います。セオリツホノコには、複数の称え名(と形容詞)があり

① アマサカルヒニ ムカツ姫
② サクナダリ セオリツホコノ
③ サクラタニ タギツセノメ

などが記述されます。

 セオリツホノコは、大山祇神元祖サクラウチの娘で妹のハナコと共にアマテルに宮入りしました。

 ホノコの容姿と品性が聖なる気品を帯びていたためでしょうか。はじめて対面したアマテル神が(本来は妃が歩み参じる慣例のところを)みずから宮の階段(きざはし)を下って姫に近づいたようです。その場面が、あまりに印象的だったのでしょう。

 アマ(天=アマテル神)【みずから】下がる、その
 ヒ(日=アマテル神)に【正面から】向かう姫

 と称えられたのです。

 サクナダリは、「滝」や「渕」「瀬」に掛かる言葉で、勢いよく水流が落ちてくる様を表します。なので、

サクナダリ セオリツは、「勢いよく流れ落ちる瀬の」という光景を表します。さらに「セ」は、「妹背」の「背=男性」を掛けていますので、「男性から勢いよく上段より駆け下りてきた」という心象も描いています。よっぽど駆け足の如く下りてこられたのでしょうか。

 この表現は、かなり人口に膾炙されていたらしく、大祓詞にも、

『佐久那太理(さくなだり) に落ちたぎつ速川(はやかは) の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ』と云うくだりが残っています。

 サクラタニ タギツセとは、タニノサクラウチと通称されたホノコの実父・桜大刀自に由来するといえましょう。タニノサクラウチは、アマテルの御所であるイサワ宮に桜と橘を奉献しましたが、大山祇神の神木である「桜」をこのうえなく愛していました。サクラウチは、「桜うち(植ち)」を意味し、また、サクラウシ「桜大人」とも呼ばれていました。ですが、同時に「タギツセ」とは、「滝のような男性」ともとれますので、

① 滝のように清らかで雄々しい父に育てられ
② 滝のように下ってきたアマテルに愛された

と云うホノコ姫の人生を表現するものとも解釈することが出来そうです。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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富士信仰で「外八海」巡拝地のひとつになっている桜が池も瀬織津姫の聖地です↑

とても貴重な記録映像です↑ セオリツヒメ信仰の深さを感じさせます

法華経信仰に上塗りされている七面山もセオリツ姫の聖地です↑

 
 
 
 
 

 

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊹「まさこ」 <130号 令和5年12月>

 フトマニ歌65番「もやま」は、日本国国歌の源流となる歌です。

『もやまとの みちはつきせし ありそうみの はまのまさこは よみつくすとも』フもやま

 この歌では、「まさこ」と云う語が要となっています。「磯の真砂」です。「まさこ」は、ホツマの序文で歌われた和歌でも取り上げられています。

『磯のはの 真砂はよみて 尽くるとも ほつまの道は 幾代尽きせし』ホ序

『かかんなす 春のひとしく 巡りきて 磯の真砂は 磐となる』ホ序

 「細石の巌となりて」の原意が、ここに流れているのです。(ちなみに、ホツマ伝に「さされいし」という用例はありませんし、「さされ=細かい」と云う用例も見当たりません)

 ホツマの序文(奉呈文)が起草されたときには、フトマニ歌128歌は、既にアマテル大御神編纂で確定していました。故にオオタタネコとオオカシマは、序文に歌を添える際に、このフトマニ歌を念頭に(本歌取りして)「ホツマ」「ヤマト」の弥栄を称えたのです。

 正岡子規の代表歌の一つに

真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり

と云う歌があります。

「真砂」は古来「数多い」「尽きない」などの語意を表現する重要語として、繰り返し歌い続けられています。

 万葉集では、

紫の名高の浦の真砂土袖のみ触れて寝ずかなりなむ〈万葉集•1392〉

八百日行く浜の真砂も我が恋にあに勝らじか沖つ島守 〈万葉集•596〉(大伴家持へ向けた恋歌とされます)

などの歌がしられます。

 もちろんホツマに知悉していた紀貫之

「山下水の絶えず、浜の真砂の数多くつもりぬれば」〈古今・仮名序〉と、浜の真砂を取り上げています。

昭和26年歌会(お題 朝空)では、

おともなき真砂路ゆけばあさぞらに

むかひてふねはいましいでゆく

と云う歌が詠われています。(崇仁親王殿下お歌)

 天下の盗賊として釜ゆでに処せられた石川五右衛門の辞世歌として伝えられるものに

石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ

と云う歌もあるとか。

 ひのもとの人のタネは尽きまじ、と信じたいですね。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している。それによれば、
君が代
一 君が代は 千代に八千代に さゞれ石の
  巌となりて 苔の生すまで
二 君が代千尋の底の さゞれ石の
  鵜のゐる磯と あらはるるまで
三 君が代は 限りもあらじ 長浜の
  真砂の数は よみつくすとも
である。このうち二番は源頼政のよんだ歌、三番は光孝天皇大嘗祭に奉られた歌である(ウィキペディア

 この「辞解」で取り上げた歌は、つまり「君が代」の三番歌になるというわけです。ですが、一番歌二番歌三番歌は、すべてひとつの神髄で貫かれているのです。その神髄を謳う、「まさこ(真砂)」と「真砂は磐となる」の本歌が、ホツマツタヱに典拠があると云うことなのです。
 「君が代」は、美しい国歌です。他国の国歌が戦意昂揚を謳うものがほとんどであることに対し、我が国の国歌は、太平の世を謳う歌です。そしてその本歌(元となる歌)が、ご皇統の無窮を奉祝するだけでなく、アマテル大御神がそれを明確に顕した「道/天成る道」の無窮を謳う歌であったことを知り、心の底から湧き上がるありがたき歓喜を覚えずにはいれません。

解説はイマイチ中途半端だけれども、世界の国家とはレベチだとわかる↑

尊敬する竹田恒泰さんですが、この解説はどうも、、、まず、君が代は32音です↑

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊸「てにおは」 <130号 令和5年12月>

「てにをは」は、漢字では、【弖爾乎波・天爾遠波】等と表記し、日本国文学では重要な用語です。

日本語を特徴づける用法のひとつに「助詞」の活用があり、「てにをは」は、その助詞を総称する用語として古くから認識されています。「てにをは」が総称となったのは、平安以降に大学寮等における博士職が使用した「ヲコト点」に由来する、と云うのが定説です。下図(乎古止点)の左下から右回りに読んだ、とされます。

画像

この定説では、本朝に漢字が伝来してからの用語ということになりますが、それは誤りです。何故なら、ホツマ伝に「てには」が記述されるからです。

『これを他所にて "舟 破れて 竜と蛟竜の 力得て" これ誤れる テニオハぞ』序

『これ諸家の 伝え文 今の "てには" に 擬えて 形と技と その味を 篤と得ざれば』ミ序

『筏と鴨の 初めより 和言葉の 道 開きて 立つ中壺の ちまたより テニオハ傅き 導きて』ミ和字

 この三つの用例を鑑みるに

① 「てには」ではなく「てには」がヲシテ文献の正当な表記

② 「てにをは」(現代語)の語意に、「話のつじつま」と云う用例があるが(てにをはが合わない)まさに、和文の語意を正確に伝える重要なことばであるという認識が古くからある

③ ホツマでは、大和言葉の「根幹」であるという捉え方さえしている

と云うことがわかります。

なかでも、「てにおは」の「お」は「あ行」の「お」である、つまり現代用法の「くっつきの『を』」は、ホツマ時代は「あ行の『お』」であった、と云うことが明確である点は重要です。

本号掲載の丸山論文にあるとおり「ひらがなの『を』」が、「わ行」で間違えないとすると、日本語文法の経緯を検証する際に、貴重な示唆をあたえる事実であるといえましょう。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 小誌『検証ほつまつたゑ』掲載論文の中でも、最近とても話題となったのが、丸山恭平さんの『ヲシテはひらがなの原型』です。つまり、漢字伝来前から存在した我が国独自の神代文字であるヲシテ(ホツマ文字)は、その後、「ひらがな」として生き残った、とする仮説です。
 それに関連して、日本語の特徴である「膠着語」を形成する助詞すなわち「テニヲハ」を辞解で考察しました。日本語の融通無碍な柔軟性(外来語をそのまま取り込めることも含め)を担保する「テニヲハ」は、興味深い存在です。
 そして、ここがホツマツタヱ文法の特色でもあるのですが、「くっつきのヲ」を「あいうえおのお」で表現することが、明白となっているのです。つまり「テニヲハ」ではなく「てにおは」が正則なのでした。

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と云うことで、まったく本論とは関係ないのですが、最近視聴した興味深い動画 ↓

(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)

 

 

 

note

https://note.com/hotumatutaye

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊷「いはとひらき」 <129号 令和5年10月>

「天の岩戸開き」は日本神話の重要場面です。

『諸カミは イハトの前に かしまとり これぞトコヨの 「ナガサキ」 や』ホ7

『君 笑み 細く 窺えば イハトを投ぐる タチカラヲ 御手 取り出し 奉る ツハモノヌシが しめ縄に 「な返りましそ」』ホ7

 ソサノヲの狼藉に対して洞窟に引き籠もったアマテル大御神でしたが、賢臣オモイカネの工夫によって事態は打開され、世間は光を取り戻します。

 この前段に
『ソサノヲは イワを蹴散らし なお怒る 君 おそれまし イワムロに 入りて閉ざせば 天が下 明暗もアヤ無し』ホ7 とありますので、「いは」と「いわ」は通じていることが分かります。

 そう捉えると、ホツマが伝える「いはとひらき」はもう一つあります。
『「タマのイワトを 開らけ」 とて 一位のはなの 笏もちて  今こそ開く アマの戸や 出づる若日の 輝きて』ホ4

 まさにアマテル大御神ご誕生の場面です。
誕生の場面に「いはとひらき」があるので、ホツマ研究者の中には、
1.ソサノヲの狼藉で「岩戸に入った」とは大御神の「崩御」を意味するのではないか。実はこのときに大御神は亡くなっていて、その後は、巫女が霊言を取り次いだだけではないか、という説や
2.「岩戸入り」と再度の「岩戸開き」は、イエスの復活譚の「元ネタ」なのではないか、という説などもあります。

 ところで、日本書紀古事記と比較して、最も顕著かつ重要な違いは、その登場人物のすり替えです。

 ホツマでは、オモイカネの発案で、ウズメが舞踏し、ツワモノヌシとタチカラヲが活躍します。ですが、記ではウズメとタチカラヲは活躍しますが、オモイカネとツワモノヌシは消されて、代わりにアマノコヤネとアメノフトタマが登場します。紀では、オモイカネは賢臣として登場しますが、やはりツワモノヌシは消されてアマノコヤネとフトタマが登場しています。

 この登場人物すり替えは、本号「三大神勅を考える」でも指摘したように、記紀編纂時において極めて政治的な思惑が働いた可能性を感じさせます。
ここを糺さなければ、日本の真正古代史の「岩戸開き」は無いように思います。
(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 天の岩戸開きは、古事記日本書紀でも馴染みの場面ですが、ホツマツタヱには、重要な記述が隠されています。
 岩戸開きは、「二度」あったと云うことと、「登場人物」が、記紀ホツマツタヱでは異なっているという重要な記述です。
 出生と再生という、アマテル大御神にとってのかけがえのない場面を、記紀ではその主人公をぼやけさせ、介添人たちをまるで主役にすげ替え、しかもその主役を「アマノコヤネ/春日系」と「アメのフトタマ/忌部系」とにすり替えているのです。マツリゴトを専横する根拠となる偽神話が、ここに捏造されました。このすり替え操作によって、原典ホツマから記紀への改竄の主導者があぶり出されます。

ナビ彦さんのこの動画は、かなり独特の解釈を打ち出しています ↑

参拝の際には、しっかりした足回りでどうぞ ↑

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【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊶「あめのふし」 <129号 令和5年10月>

ホツマツタヱに「やくどし/厄年」という言葉はありませんし、「やく/厄」という言葉もそもそも記述がありません。しかしながら、男女の厄年に通底する概念はあり、

『然れど父は 鈴 四十穂 母は三十一穂 アメのフシ 宿れば当たる 父の汚穢 男の子は母の 隈となる』ホ3 という重要な記述が残ります。

 両神の初子ワカ姫が生まれたとき、イサナギが四十歳でイサナミが三十一歳だったので「アメのフシ(天の節/陰陽の節)」に当たったのだそうです。なので三歳にならぬうちに(満年齢で二歳足らず)イワクス船に乗せて(擬似的に)捨て児にしたというのです。(万事了解していたカナサキ夫妻がひろって養育します)

これが、男四十二歳、女三十三歳の大厄の「もとおり」とホツマ研究者は考えています。

今日では、男の厄年は数え年で「二十五、四十二、六十一」とされ、女では「十九、三十三、三十七、六十一」(異説あり)とされています。

両神の時代に既にその風習に従っていたということは、起源はかなりさかのぼると考えられます。

似た言葉に、「アワのフシ」という言葉があります。

ワカ姫が弟ソサノヲにワカ歌の五七調を説明する下りで、

『ハナキネは、五七につづるを 姉に問ふ。姉の答えは「アワのフシ」』ホ1

 続く下りで太陽と月の周回のズレから三十一音と字余りの三十二音(祓い歌)の違いを「アワのフシ/天地の節・陰陽の節」から姉ワカ姫は懇切に教え説きます。

 故に、これらは、いわば「宇宙生命リズム」の生む「順と不順」ということになるのかと思われます。ただ、不順そのものが「凶」となるわけではなく、「アメノメグリノムシバミ・アメノムシバミ」を犯すと「凶」となるようです。

『アメの巡りの蝕みを 見るマサカニの 中 濁りて 生むソサノヲは 霊乱れ 国の隈成す 誤ちぞ』ホ7

『日の神の 嗣得て植ゆる 君は今 若きタケヒト 思わねば アメの蝕み晴るる時 苗生え無んや』ホ28

『アマつ日月を 我 継ぎて アメの和ふ日も 安からず 陰陽誤りて ついてせず 疫病起りて 民 治えず』ホ34

 今の世界は「ムシバミ」を犯してないでしょうか。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 厄年という厄介な年巡りの習俗が、実は縄文時代からあったとは、驚きです。
 日本の古い習俗をすべてシナやコリア由来とするのが大東亜戦争後のアカデミズムですが、「厄年」に関しては、それらしい典拠を東アジアに求められないようです。けれども、世界中に目を向けると、各地に似た習俗はあるようです。
 地方によって違いがあるのですが、イギリスでは、一般的には男性は4のつく年、女性は7のつく年が良くないとされているようです。厄払いには、その数だけの木の実を庭先で焼くのだとか。
 スペインでは、男性は24歳と44歳が、女性は14歳と34歳が厄年にあたり、馬肉片を年の数だけ食べ、夜を踊り明かすことで厄を祓える風習があるそうです。
 トルコでは、一般的には男性は23歳・43歳・63歳が、女性は13歳、33歳、53歳が厄年とされていて、等身大の泥人形を流して厄払いをする風習もあると云うことです。
 微妙に近似感があり、男の40代前半、女の30代前半に危険があることなどは、興味深いです。

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ホツマツタヱにはまったく評価が低い竹田氏ですが、神社との付き合い方の基本形は、おっしゃるとおりですね ↑

https://www.youtube.com/watch?v=yMQRLvFM2GY

 日本人感覚とのズレをみごとに説明して下さいます ↑

「厄年」を「役年」とポジティブにとらえる考え方は、確かにあります。神社の当番もその大厄年齢に合わせることも各地に見られます。カミごと(神事)の「役」を引き受けるとこで、潔斎を心がけて、結果的に厄払いとなるという効果はは、前向きに受け取るべきですね。

 

(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)

https://note.com/hotumatutaye