縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマの論点】 ウタに命、コトハに息吹を <90号 平成29年4月>

 いときょう氏を団長に結団された「ホツマツタヱを学ぶ会皇居勤労奉仕団」が、皇居と赤坂御用地の清掃奉仕に参上致しました。如月の第二週、まだ厚手の外套を着込んでいた頃です。

 赤坂御用地ではみぞれまじりの雨に見舞われましたが、皇居奉仕の三日間は空に青空が拡がり、宮城の木々も新芽の気配を感じさせる清々しい日々でした。お庭番の職員の方々に懇ろなご案内をいただきつつ、聖上のお手植えになる「神田」周辺や皇后陛下がお育てあそばす蚕の餌となる桑畠の手入れに勤しみ、宮殿至近のお庭を掃き清め奉りました。二十二名の団員は、「天朝のタミ」として皇居に迎え入れられている僥倖に時の流れを忘れるばかりの充実感を満喫することができました。

 「勤労奉仕団」には、畏しこくも両陛下からの「ご会釈」が賜られるのですが、まさにその時、
美智子后陛下の下問に応えて、いと団長が「ホツマのウタ」をお伝えなさいました。(本号に詳細あり)
 そのときの感動は胸が熱くなるものでした。

 二千年の時空を超えて、ウタが命を甦らせ、「キミ」を祈るこころで人々が結ばれたのでした。

 「ウタの命は限りなし」とまさに実感致します。私たちはホツマツタヱを勉強しようと、ともすればその解釈の是非に囚われ、神々の系譜にこだわったり、地名の比定に躍起になったりします。すべて大切なことです。地道な「検証」こそが、ヲシテ文献の正統性を言挙げする大きな力になることは間違い有りません。

 ですが、「ウタをウタとして」こころを真っ新にして詠歌することにより、命が甦り、詠うものの心があきらかになる、その神妙なる働きに、もっともっと心を尽くすことが大切ではないかと思うのです。

 さて、おかげさまで本誌も創刊九〇号を数えることが出来ました。産声を上げて、満十五年です。

 「ホツマツタヱには何が書かれているの?」の問いに答える訳文、解釈は、大筋で打ち立ててこれたと思います。ですが、本当の味読は、これからです。より真剣に、且つ伸び伸びと「ウタに親しみ」、また、ひとつひとつのコトハを掬い上げて、「百千万年の彼方」と「今この時」を結び付ける、至福の旅をこれからも読者とともに進めていきたいと思います。

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小誌90号の記念巻頭文です。今(令和6年4月)から、7年前になります。直前にホツマ塾を運営されるいときょうさんを団長にした皇居清掃奉仕団の奉仕があり、筆者も参加させていただきました。(思えばこのときに「龍馬の会」を代表していた(後の)参政党の神谷氏といときょうさんの出逢いがあったのですね。筆者は龍馬の会の第一印象がイマイチだったので距離をおいていましたが、いとさんは驀地でした。それはさておき)

ホツマツタヱの素晴らしさは那辺にあるかと訊ねられたら、答えはいろいろあるでしょう。けれども、物語の筋や教ヱも素晴らしいのですが、ウタとコトハにこそ、かけがえのない素晴らしさがあるのではないかと、とらさんは感じています。

この方↑ のことは存じ上げないのですが、素晴らしい研修動画です。是非ご視聴下さい。また、この中でも、奇しくも「心をふるわせるウタのチカラ」が語られています♡

 

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【ホツマの論点】 イサ イセ イサワ 或る日の編集会議にて <91号 平成29年6月>

 当誌の編集会議は毎月、明治記念館「金鶏の間」で開催していますが、議論百出、汲めども尽きぬホツマの魅力を語り明かします。前回の話題は本号で焦点を当てた大御神とイセ、イサワの謎解きでした。

 イサワの「辞解」は那辺に、との問いにS氏は、「イは【風】の象、サは【南】、故に南より神風吹く聖地を意味しよう」と持論を開陳。応えてK氏も、「イサ川は、神山筑波を南に眺める現在の桜川。両神のイサ宮もその近辺であろう」と同意。我が意を得たりとS氏は、「石和温泉の湧き出た石和(イサワ)も霊峰富士からの南風の地。イセのイサワは、ここから宮遷ししたのではないか」との新説。

 主筆のI氏は、「アマテルのヤスクニ宮は、ハラミ山を南(サ)に遙拝する富士北麓にあったと考えるが、イサワは、サコクシロウチに近接する地であろう」と述べ、H氏の「やはり伊雑宮でしょうか?」の問いに、「いや、彼処は磯部の地。ヤマト姫が猿田彦から引き継ぎを受けた後、事成って、余生を過ごした宮ではなかったか」と異色の新説。『延喜太神宮式』に、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載され尊重されるのは姫神への敬慕の名残なのでしょうか。

 では、本来の伊雑宮は一体何処か、の謎解きに今度はH氏が、「オシヒト皇子がお生まれになった【フジオカミミのオシホヰ】が、外宮の藤岡山、現在の上御井神社の辺りであるとすれば、雄略治世の遷座を遙かに遡る「宮」の存在が窺える。即ち外宮の元はイサワ宮でなかろうか」と驚きの新着眼。境内別宮の多賀、風、土の三宮も「イサ、サ、ワ」を暗示するようにも、、、

 興味を示したI氏の「イサワの地からほど近き処に大御神の禊ぎの地、ミモスソの聖地があるはずだが」との投げ掛けに、「瀧原宮かな?」「いやいや、内宮御手洗場の瀧祭神の辺りは五十鈴川が狭くサクナダリだよ」と、論壇「風」発でした。

 編集会議は、自由に誰でも臨席可能です。購読者のあなたも「ホツマの論点」に一緒に熱中してみませんか。今号から、読者のお便り欄も拡充していきます。

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アマテル大御神が後半生を過ごされた「イサワのみやこ」の比定地は、いつも議論が白熱します。小誌の編集会議では、定番のテーマであり、令和6年今月4月の編集会議でも、その話題で盛り上がりました。

この小論考でのH氏とは、筆者のことですが、当時直ぐ近くまで海岸線が迫り、船着き場としても、また乗馬による陸路においても要路に位置していた今の外宮(とみや)は、タカマの地にふさわしい「神風の伊勢」の地です。本号では、いせ・いさわについて様々な角度で各人が見解を述べました。
ちなみに、表紙の美しい湾岸画像は、的矢湾です。「ま・と・や」は、ヤマトの順不同ですね。

ホツマツタヱも紹介されています↑

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とらさん原田峰虎|note

【ホツマの論点】 富士山と日月の神々 <92号 平成29年8月>

 霊峰冨士の登拝シーズンもまもなく終わります。金剛杖を手に日本一の山頂を目指す登山者たちは、「信仰」として山を登っているわけではないのですが、大多数の方々が目的とするひとつは「ご来光」。(不思議なことに)ご来光に自然と手を合わせるのです。山頂には浅間神社の奥宮がふたつ鎮座していて、そこに到達した登山者たちは、やはり「せっかくだから」と順番を待って参拝し、神妙に手を合わせます。

 日本人は往々にして頭を垂れる対象の神仏に対して、その「正体」を頓着することがないのですが、「冨士の大神」についても、それ以上を知ろうとすることは殆ど無いようです。

 富士山には現在四つの登拝道がありますが、登山口にはすべて浅間神社が祭られています。ご祭神を観ると、吉田口の北口本宮が、木花開耶姫命彦火瓊瓊杵命大山祇神、須走口の東口本宮が、木花咲耶姫命大己貴命彦火火出見命、御殿場口の新橋浅間が、木花咲耶姫命瓊瓊杵尊天照大神富士宮口の富士山本宮(山頂奥宮も)が、木花之佐久夜毘売命(別称:浅間大神)です。(ちなみに吉田口山頂の久須志神社の祭神は大名牟遅命と少彦名命

 「ソヲ高千穂」にお隠れになったニニキネ大神と向き合い「アサマカミ」として冨士の峰洞にお隠れになったのは「アシツ姫すなわちコノハナサクヤ姫」ですから、ほぼホツマの古伝を反映したご祭神となっていることが判ります。

 しかしながら、(浅間神社の社神格でなく)霊峰富士そのものの御神格としては、太陽神、もしくは日月の神としていにしえより認知されているようです。仏説では大日如来として遇されます。

 「日月の神」というのが、ニニキネとアシツ姫のメヲを象徴するのか、アメミヲヤ神の左右の目(日月)として誕生したアマテル大御神を象徴するのか、はたまたこの峰に登拝して日嗣の皇子誕生を祈願したイサナギとイサナミの両神を象徴するのか、議論は分かれるかも知れませんが、いずれにしても子宝繁栄・万民豊楽をその御神格の「心願」と理解することは、間違いないはずです。万物が豊かに成熟し、実りの季節を待つ夏の季節に、「少子化」に悩む我が国の行く末を憂い、ハラミの霊峰に手を合わせることは意味深いことと存じます。

コノハナサクヤ」を「子の華咲く」と解く駒形さんの「ニニキネ大神」連載に、神々の真意をすくい取っていきたいと思います。 

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今月末の4月29日には、コノハナサクヤ姫を祭る富士吉田の御胎内神社で例大祭が開かれます。富士講行者である筆者も供奉して神事に奉仕いたします。いよいよ不二山の季節の始まりです。

この論考は、不二山のご祭神について考えたものです。コノハナサクヤ姫と見ることが一般的であり、ホツマ的にも間違ってはいないのですが、さらにその奥に祭られているご祭神がいらっしゃいます。神仏習合は「隠れホツマ教」であるというのが筆者の見立てですが、習合して祭られる対象物の傾向にも、謎を解くカギが秘められています。

年明け早々に大往生された大先達齊藤行者のお焚き上げ。↑ 筆者は、先達の右後ろに供奉していました。この時すでに90歳。往復の山道ではわたしが大先達を負ぶってお運びいたしました。今頃は天界で、歌とお酒を楽しんでいらっしゃることでしょう。

 

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【ホツマの論点】 幸福の起源と「おひとり様」 <93号 平成29年10月>

 ホツマツタヱには獲物や恵みを意味する「サチ」という語句はありますが、「しあわせ」という語句がありません。「あわ」を結ぶという意味ともとれる「幸せ」は、極めてホツマ的な表現とも筆者には思えるのですが、文献では見いだせません。代わりに、「さひあひ/さいわい」という言葉があります。

 幸福のホツマ的表現である「さひあひ」は、駒形一登さんの解釈では「添ふ」「合ふ」の名詞表現ということですが、男女が寄り添って出会い結ばれることを意味します。ちなみに「さいあい」を変換すると「最愛」となりますが、平安・鎌倉・室町頃の古典にも、「さいあひの妻」「最愛の中」「さいあひして、御子あまたいでき給う」などの用例があり、この言葉が古くから男女の和合を示すことは常識的であったことがわかります。

 さて、その「さひあひのもとおり」つまり「幸福の起源」を語り明かしたのが、ホツマツタヱの第二アヤ「天七代床神酒のアヤ」で、雛祭りの起源ともなるウビチニとスビチの婚姻譚です。桃の木のお話や、御神酒の謂われ、嫁ぎの意味や三三九度盃の由縁、禊ぎや祝い水の発祥などが説かれるとっても楽しく興味深いアヤです。初々しい(ヒナ)のふたりが出会い結ばれる物語は、青春映画を観ているような気分にさせてくれます。

 縄文の昔から「幸い」の本源は、男女の睦び合いにありました。このアヤが、「うた(和歌)」を主題とした第一アヤに続く全四〇アヤの二番目に置かれていることは、重要です。男女の睦び合いこそが、天成る道、人々が目指すべき道であり、人倫の聖上たる「君」の率先垂範すべき道である、と宣揚し、「君/キミ」の起こりが「木と実」であり、木たる男が実たる女を迎え入れて完成型となると、説くのです。

 ですが、疑問も生じます。雛の二人は天神四代目。初代から三代までは「女もあらず」、独り神であったと伝えるのです。「おひとり様」でした、と。妻の不在は、結婚制度の成立以前だからとかの解釈もありますが、はてさて、真相はいかがなものでしょうか。

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「しあわせ」という言葉は、誰もが一番もとめる人生の価値だと思いますが、ホツマ文献には用例がありません。けれども、「さひあひ」と云う言葉がじっくりと語られています。「幸せ」は、家族の平安や、健康長寿と結びつきが強いようにわたしは感じていますが、その状態は、ホツマ的には「ゐをやすく」と「やすく」つまり「靖国」として表現されています。

ホツマの第2アヤは、「さひあひ」を語る章なのですが、「幸い」は、「幸せ」とちがって、もっと直截的に「男女の良い仲」を表現する言葉であるようです。つまり「伊勢の道」です。ワカ姫の成長を綴った第1アヤをさかのぼってウビチニとスビチの陰陽和合を物語っています。不思議な順序ですね。

これは、書き出しで、宇宙論(1綾)を語り、次ぎに陰陽論(2綾)を語っているのだと思われます。縄文の世界観を、優しく美しく、ゆるやかに語るこの書き出しは、何とも味わいが深いものです。

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【ホツマの論点】 ミチ(シ)カウタは相聞歌の意味か <132号 令和6年4月>

 ホツマツタヱにおける「ミチ(シ)カウタ」の用語は、二例しかありませんが、現代の「短か歌」すなわち五七五七七の三十一文字短歌とは違う意味づけであったようです。このことについての考察は、この「ホツマの論点」106号で多少触れていました。ミチとミシのヲシテ表記の揺れもあり、なかなか悩ましいところです。
ですが、二例に共通するのは、(甲)長めのウタであること、(乙)男女の掛け合いのウタであることと云う共通点があります。一〇アヤのシタテル姫とアチスキ高彦根の掛け合いの五十五音歌と、四〇アヤのヤマトタケとミヤヅ姫の掛け合いの六十七音歌が、ミチ(シ)カウタです。

 さて、古来、本朝の歌謡には、四季の歌や旅の歌(雑歌)、哀惜の歌(挽歌)、恋歌や別離歌(相聞歌)といった大きな区分けが存在します。そういった観点から考えると、ミチ(シ)カウタは、男女が掛け合う、恋歌であったと考えることが出来るのではないでしょうか。一〇アヤの下照姫と高彦根の歌も、多重に意味を重ね合わせた最高級の恋歌と読み解くことが出来ますし、四〇アヤの日本武尊宮津姫の歌も、恋心とお互いへの尊重と、そしてその裏に哀しい予言を含む絶妙な恋歌に仕上がっています。

 ミチカウタなのか、ミシカウタなのか、ヲシテ表記に揺れがあります。一〇アヤ葬祭場での出逢いの歌は、ミチカウタと表記され、四〇アヤの遠征を終えた再会の歌はミシカウタと表記されています。

 それらのことを理解した上で、その語意を考えてみると、
「ミチカウタ」→「身」も「チ(血/霊/心)」も男女お互いに「通う」歌
「ミシカウタ」→「実/真心」を「確と」「通わ」せる歌
 などと、捉えてみることは如何でしょうか。

 「ワカ」とは、一アヤにおいて天地の巡りに合一して命をワカ(若)返らせるウタであるとワカ姫は教えていました。清藤氏はワ「地」に(歓喜を)「カ(返す)」歌と解釈されています。ホツマツタヱは、陰陽和合、伊勢の道を高らかに詠う物語なのです。

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さて、最新号(R6.4.15)です♡ ミチカウタの意味について考えた論考となっています。ホツマツタヱは、全体が五七調の叙事詩であり、歌物語なのですが、そのなかに沢山の歌謡が記述されています。

この歌謡は、一部は日本書紀古事記にも記載されており、和音も推定出来るので、その違いを比較検討することが出来ます。比較検討すると、ギナタ読みや不詳故の誤訳が記紀文書にあぶり出され、ホツマツタヱの真書性を証明する重要な鍵にもなっています。ホツマが漢訳され、さらに引用編集された経緯が想像できるのです。

また、歌謡は、神々の「肉声」である故に、その生身のお気持ち、お考えがよく現されていてとても興味深いものです。なかでも、男女の相聞歌は、美しく、どこか哀しく、愛に溢れていて読み返すわれわれを深い感動へと導きます。

万葉の歌は、ホツマの心を今に伝える美しくも素直で、天地とともに生きるあり方がちりばめられていますね。

 

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とらさん原田峰虎|note

【ホツマの論点】 サカオリの宮と本庄家古文書 <94号 平成29年12月>

 富士山麓浅間神社は「センゲン」を正式名称にしているところが殆どですが、笛吹市の甲斐國一宮浅間神社と河口湖の浅間神社は「あさま」が正式呼称です。あさま神としてコノハナサクヤ姫を祀ると共にニニキネ神を奉祭します。式内名神社(甲斐國八代郡)の論社として甲乙つけがたい由緒をもちます。ふたつの浅間社は、御坂山地の御坂峠をそれぞれ北南に下った里に鎮座します。つまり「サカオリ」の地です。「御坂みち」として古代官道の要衝をなしたこの地は、ハラミツボの古都「サカオリの宮」の有力候補でもあります。

 不思議なのは、両社とも霊峰富士を遙拝していない事実です。笛吹浅間は西北西向きで、本殿は甲府市の「酒折宮」やその旧社地と伝わる甲斐善光寺をかすめて駒ヶ岳を遙拝します。河口浅間は東北向きで、母の白滝をかすめて三つ峠山を遙拝し、その先は武蔵御嶽神社へと繋がります。物証があっても解釈は難しいものです。

 この謎解きと同様さらに興味深いのが、河口浅間社の御師の家に旧蔵されていたヲシテ文献です。この十二月で再発見から満五年がたちます。本誌83号では、駒形一登氏が現代訳を提示し、そこに秘められた陰陽論にメスを入れ、清藤直樹氏が「六つ教」の解明を試みました。86号では駒形氏が「ウタの六分類とフトマニ本歌取り」に関して示唆を加えています。これらの論考、ならびに平野新吉氏のフトマニ解釈考は、日本歌謡論として日本文学の画期をなす研究分野の幕開けを予感させます。

 歴史書としての『ほつまつたゑ』の輝きは、古代史の定説を根底から覆す「危険書」の香りをも、必然的にはらみます。しかし、「日本歌論書」として本伝をとらえると、又違った色彩と可能性をそこに見いだすことが出来るのではないか、と私たちは考えています。

 「古今伝授とクモクシ文」「小倉百人一首とオクラ姫」「連歌作法とツヅ歌」「國偲び歌の真相」様々なテーマがすでに机上にのせられています。本号では、本庄文書発見者の宮崎貞行氏が、新たに驚愕の「謎解きのカギ」を開陳して下さいました。ご期待下さい。

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平成24年、つい最近に再発見された河口湖の御師旧家文書。『わかうたの綾』では無いかとみられるその一章(完全ではない可能性あり)は、「ウタ」に秘められた深遠なる哲学が記される貴重な一文でした。

ページの錯誤(写本過程での)かと思われる部分もあり、難解な文章でしたが、小誌寄稿者の駒形氏が解読を手がけ、様々な新発見につながりました。そして、本号では、宮崎氏が、新たに驚愕に指摘をされて、我が国の国文学通説をゆるがすような大発見をなさったのです。ヲシテ文献の奥深さを感じさせる出来事でした。古今伝授とは、何だったのでしょうか?

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【ホツマの論点】 縄文の馬 <95号 平成30年2月>

 今年は戌年ですが、イヌと同様に人の暮らしに太古より関わり深い家畜がウマです。ホツマでは馬に関する記述に一アヤ丸ごと割き、乗馬法が「君臣」にとって重要な技術であったことを物語っています。

 家畜の宿命ゆえに、馬には不断の品種改良圧力がかかり、特に軍事目的において強制的な措置もあり、血種は著しく改変されてしまいました。薩摩馬の薩摩藩はすでに戦国期にペルシャから軍用馬を輸入していましたし、南部馬の奥州でもロシアやモンゴルから数百頭の馬を買い入れたと記録されています。

 現在の官製古代史では「日本の馬は古墳時代朝鮮半島から帰化人と共に渡ってきた」と一般的に説明されていますが、縄文時代から在来種の日本馬が複数存在していたと考える研究者もあります。ですが、いずれにしても程度の差はあっても混血の影響は免れず、遺伝的調査だけでは「縄文の馬」の元の姿を描き出すことは難しいようです。

 離島や岬の先端など、交通不便な地域で血種が守られ、かつての姿をよくとどめる馬群八種を、日本馬事協会が「日本在来馬」として認定し保護にあたっています。ホツマでは、「馬のうまれつき」として、ヒタカミ、コシ、ツクシ、ミナミの四種の馬の区分を示し、それぞれの性格や体質を描写しています。それを比較してみると、北海道和種(俗称道産子)は元の南部馬であり、ヒタカミの馬に近く、宮崎の御崎馬対馬対州馬、そして純血種としては絶滅した薩摩馬がツクシの馬の特徴に通じるように思えます。ミナミの馬はトカラや宮古、与那国の在来馬の特徴に通じます。コシの馬に関しては、やはり純血種としては絶滅した甲斐馬や、在来八種に残る木曽馬とつながるようです。

 在来馬は小型で子ども向け? と一般に誤解されていますが、モンゴルの馬も道産子や木曽馬とほぼ同程度の馬高です。騎射に向くということでは共通する素質をもつ馬種なのでしょう。

 乗馬法とともに馬具に関する記述も豊富なので、このアヤの研究は、ホツマの真正を証明する上で極めて重要だと云えましょう。

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日本の古代史の再発見、読み改めは各方面で進んでいますが、金属加工とともに、まだ、決定的な論証が進まないのが、乗馬の記録です。

ホツマツタヱでは、今回の論考のように、まるまる一綾(40章の中の1章)を使って、乗馬の作法について記述しています。その記述は詳細を究め、今日伝わる和風の乗馬作法につながる用語もあり、看過できない内容になっています。乗船と乗馬は、縄文時代の神々(施政者)のたしなみとして当たり前のものであったようです。

黄金休暇週間では、古社で乗馬に関する神事が執り行われることが多いですが、ぜひ、ホツマツタヱの19綾をお読みになってから、お出かけ頂ければと存じます。

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