縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマの論点】 ヲシテ文献探索「北嶺」への道 <96号 平成30年4月>

 ご維新の激動期にヲシテ文献の散逸を憂慮し、貴重な写本を残した高島の旧士族、野々村立蔵(水尾神社祠官)は、容聡本を西万木の日吉神社に奉納するにあたり『秀眞政傳紀 傳來由緒書』を記し、この文献の伝来の経緯を後世に伝えました。その文中に、伝教大師最澄ヲシテ文献との関わりに触れるくだりがあります。

 「天皇御文庫爾有者、中古桓武天皇、僧伝教大師爾託之賜布、是比叡山爾秀真政伝紀石室爾納留者也」。すなわち、八世紀末の当時、宮中に秘蔵されていた『ほつまつたゑ』は、桓武天皇から伝教大師最澄に(何らかの理由により)下賜され、大師はこれを磐屋に納めて秘匿奉祀した、と伝えているのです。

 漢訳を手がけた和仁估容聡の井保一族。その祖先である大鶴軒孝阿は、比叡山目代であり地方小領主のような存在でした。一方、天台宗園城寺塔頭法明院第五代の学僧・敬光は、ヲシテ文字を引用して神代文字を論ずる『和字考』(寛政三年1791年)を残していますが、その中で本伝と比叡山との関わりについて触れています。また、その弟子筋と思われる西福寺の頓慧は、『神代神字弁』(嘉永二年1849年)において「伝教大師ノ作ノ穂妻文字ハ一字モ読ム事ハ出来ヌ事ナリ」と記しています。さらに、貴重なヲシテ文献残簡を著書に残してくれた溥泉が、『春日山紀』を木版刊行(安永九年1780年)するにあたり、東寺の長者(管長)であった尊淳が「序」を寄せています。そのなかで尊淳は、自身が先代旧事本紀大成経の研究者として名高い神道家・偏無為(依田貞鎮)の学恩を受けた事を公言しています。この偏無為はまた、天台宗の高僧にして家康公の側近であった天海の流れをくむ山王一実神道を伝える天台系の学僧でもありました。

 このように比叡山天台宗と本伝との関わりは誠に濃密です。ヲシテ文献が厳秘の中で伝来、研究されてきた可能性は極めて高いと、松本善之助翁はじめ先学諸賢は、関心を寄せてきました。さて、信長との戦禍により膨大な古書が消失した比叡山ですが、関連寺院に残された稀書を始め貴重な古文書が「叡山文庫」に所蔵されています。目録として整理されたものだけで、その数、三万二千余。今回、私たちはその調査に着手致しました。本号レポートをご覧下さい。

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天台宗は、浄土宗、日蓮宗禅宗はじめ我が国仏教の源となる叡智の本堂です。開基の最澄は、琵琶湖大津の人物であり、聖地タカシマとゆかりの深い系譜を持ちます。(空海空海でやはりヱミシを通じてトコヨクニとつながる系譜を持ちますが)天台には、ホツマツタヱと神妙な関係を元々持っていたと考えられます。

錯綜する人脈が示す霊脈が、ホツマ伝書に関係していたことがわかります。先代旧事本紀大成経だとか、天海上人だとか、謎めく固有名詞がちらつきます。

日本仏教は、隠れキリシタンならぬ「隠れホツマ教」のフシがある、とは筆者とらさんの見立てですが、さて如何でしょうか。

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【ホツマの論点】 八王子・八将神・八大龍王 <97号 平成30年6月>

 「ヲシテ関連文献」発掘のために比叡山延暦寺の叡山文庫に特別な許可を頂き、古文書の閲覧を進めています。日本仏教最高学府のひとつたる天台宗お膝元だけあって、「ヲシテ」は見つからないまでも、様々な発見に驚かされます。天照大神を「大日霊貴(ウヒルギ?)」と表記し、大日霊貴は天御中主が天界から地界に降下した元神であり、「御饌都神(トヨケ大神?)」と共に「治天下」された、という記述が残って(横川別当代文書 『審鎮要記』)いました。記紀に依らぬ(ホツマに近い)独自伝承といえます。同じく独自伝承としては、山王、すなわち日吉大社の神山である「八王子山」に関する伝承も興味深いものがありました。

 「八王子」が何を意味するのかは、そもそも定説はなく、時代による変遷もあります。今回閲覧した明徳院文書『山家最要略記 附厳霊応章』は、その旧聞を伝えるものでしたが、そこには、「天神第二尊國狹槌尊」が「八人皇子引率天降故ニ八王子」という記述がありました。まさに、ホツマにおける「ヤクダリコ」の伝承を表現するものに他ありません。

 全国にある「八王子」の元は、「本来、天照大神素戔嗚尊の誓約で出現した五男三女」が、神仏習合により改変され八王子権現とされた、というのが通説です。で、その通説の八王子権現とは牛頭天王の八人の御子を意味し、その見解を拡散した張本人は、山王一実神道、つまり日吉大社比叡山天台宗であると流布されています。しかし、実際には、天台宗の大本では、ホツマ伝承に則る「トホカミヱヒタメ」八神(天元神)こそが八王子であるという真説を秘匿していたのです。

 話は飛びますが、全国各地で崇敬される「八大龍王」は、通説では、法華経に典拠する「仏法の守護神」と見なされていますが、その多くが真実はやはりモトモトのアモト神「トホカミヱヒタメ」を祀っていた名残と観ると、そこにはどのような宗教観・歴史観が浮かび上がるでしょうか。「仏法守護神」に帰依する装いで、アモト神に祈りを捧げる。まるで隠れキリシタンが石仏の裏に「マリア様」や「イエス様」を秘匿していたように、、、。

 ついでに指摘しておくと、方位学や暦注で馴染みのある「八将神」も、通説では「牛頭天王の八王子」と説明されています。ですが、この八方位神も、ホツマにおける「ヤマサ神(守)」に通底し、同時に天界に還った「アモト神」の方位・季節の守護神格とも関わることをホツマ研究者は理解しています。このあたりの全体像(歴史的変遷を含め)は、わかりやすく整理しておくことが必要であり、今後の課題といえましょう。

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われわれ日本人は、「八」が大好きです。末広がりの縁起のよい数字とみなしますし、神々にも、「八」のつくものが色々あります。

この頃、天台宗の宝蔵文庫「叡山文庫」に入室の許可をいただき、ホツマ関連文献の調査をしてきましたが、その中に、上記のような興味深い記述を発見しました。八王子権現とは、牛頭天王の八御子であると通説では理解されていますが、天台宗の極秘秘伝では、ホツマの伝承を翻訳して伝えていたのです。

ホツマの伝書伝承によると、最澄ホツマツタヱを託された伝承人だった、とされていますが、興味深い事実です。

東京に住むなら、八王子も良いな↑。こちらまだ参拝したことないのですが、いつかきっと。

 

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とらさん原田峰虎|note

【ホツマの論点】 恵比寿と大黒 柱の不思議 <98号 平成30年8月>

 ホツマ二十一アヤは長編。連載中の『わたしのほつまつたゑ』(清藤)は、今回その後半の解釈となります。地鎮祭や棟上祭の原初が明かされます。楼門や鳥居、羅生門の語源や深意が、次々と語られて、息つく間もない驚きの連続となるアヤですが、「大国主」の正体が示される部分には、「あれれ?」と意外に感じた方も多いと思います。馴染みの深い七福神の二大スター、恵比寿と大黒。アカデミズムの通説では、鯛を釣り上げる姿の恵比寿が「唯一の日本古来の神」で、大黒は、ヒンズー教シヴァ神が、大国主命素戔嗚尊の息子の大己貴命(おおなむち)と習合したものと解釈されています。

 ホツマ伝承を読み解けば、恵比寿は、カシマタチ(国譲り)に際して賢明な判断を示した「ゑみす顔」のクシヒコ=(オホナムチの息子)のことだと判ります。それでは、大国主は父のオホナムチであろうと早合点しそうなものですが、このアヤで、ヲコヌシ(大国主)は、「宮造り則」を定めるなど、国造りに功績のあるクシヒコにニニキネが下賜した尊称であると明かされるのです。しかも、中軸となる「中柱(宮柱)」のことをその名を取って「大国主柱」と名付けたと伝えています。つまり、今に至る「大黒柱」もクシヒコ柱なのです。

 ただ世俗的には、種袋と槌を持ち豊穣をもたらす大国主=大黒さまのお姿は、オホナムチそのものであり、神社の御祭神を検証すると、クシヒコとオホナムチはかなり混同して伝承されています。加えて、記紀では素戔嗚尊の六世とか七世とか記述されるように、大国主クシミカタマと混同されて伝承されたケースもあります。大物主や事代主が、世襲役職名であることに理解が及ばなかった故の混乱もあるのでしょう。

 ところで、本アヤは、「柱のアヤ」と云っても良いほど、縄文文化における「柱へのこだわり」が満載です。「中ツ柱・スミ(角/隅)柱」の五本柱の深意、柱における「根」への着目など、ホツマの世界観を特徴づける要点が「柱」には秘められています。三内丸山遺跡出雲大社の古代復元図、諏訪地方の御柱祭、そして伊勢神宮の「心御柱」など、「柱」には天地とつながり、神霊と絆を結ぶ、神聖な役割があります。

 本号には、その「はしら」を考察する論考が結集しました。両神の「トツギ(嫁ぎ=ト継)」は柱巡りから始まります。「はしら」には、「いのち」を生む不思議な力があるようです。

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ヱビスと大黒という日本人大好き神様のお話から、「柱」についてサラリと語った小論ですが、少々詰め込みすぎかも知れません。ヱビスと大黒は、日本の古代史を考える、とくに帰化人のルーツと日本神話への影響力を考察する際に大切な要素です。また、「柱」もそれを語るだけで何十本も章立てが必要になるテーマです。

表紙画像は、山岳信仰の西の聖地・石鎚山の鎖場です。山伏の峰入り道には、このように圧倒的な一本道が多いのですが、やはり、これも「柱」に関係します。アメツチ天地を結ぶ「柱」を登拝し、柱のように聳える滝の流れに禊ぎして、採灯護摩で煙を柱とし、夜は満天の星を眺めつつ「夢の告げ」を待つ。これが、我が国の山岳神道なのです。

とらさんオシのMARiAさん↑の石鎚登拝。随分初々しい頃ですね♡ わたしも同じ峰を登った(6年前ですが)とは、信じられない画像です、はい。

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【ホツマの論点】 さかのぼる縄文と弥生の前倒し ~「弥生時代区分不要論」を呈す~ <99号 令和30年10月>

 戦後の縄文ブームは、1952年の岡本太郎縄文土器論」からの第一次、1972年の縄文杉年代推定からの第二次、1994年の三内丸山遺跡栗柱発掘からの第三次と続き、今に至っています。この夏には、東京国立博物館に国宝六点が集結し、映画『縄文にハマる人々』も公開されて、昨今、空前の縄文ブームなのだそうです。

 50歳代の筆者が少年の頃、縄文時代は7~8000年前で、紀元前300年前後に弥生時代へと移行したと習った記憶があります。その後、縄文の始まりは倍近くさかのぼり、弥生の始まりも紀元前千年(今から約3000年前)ほどに前倒しされてきました。縄文は平和で自然と調和し美と躍動感に溢れ、弥生は衣食住の文明が萌芽したと教わりましたが、『縄文ブーム』に踊る人々も、おおむねその意識で「一万(数千)年の日々」に憧れているように思います。

 縄文と弥生の線引きは、元々は土器の作法の違いにありましたが、稲作農耕、高床式建造物と大規模集落、織物や冶金技術の有無によって「未開/文明」の区分けを行いたいが為に、強調されてきました。しかし、1990年代以降、考古学的知見が深まり、それら「文明の証拠」が相次いで旧来縄文期と思われていた時代区分に発見されたので、弥生の始まりは、ダラダラと前倒しされました。いずれ「証拠発見」は、さらに数千年前倒しされることになるでしょう。何故なら、ホツマツタヱに記録されているように縄文時代には、既に定住型の栽培農耕技術と「ムロヤ」建造・「ハタオリ」「カガミ」等の技術を有し、「クニ」を治める意識を自覚していたからです。

 本誌掲載の千葉富三論文による時代考証では、アマテル誕生が今から約3300年前、クニトコタチの出現は、さらにその約一万年前(五百継天の真榊)です。アマテルの四代前のウビチニの治世には、月次祭脱穀した穀類の粥が神饌です。かけひ(樋)による灌漑稲作は古く、いせき(井堰)やつつみ(堤)による治水での水田耕作をアマテル孫のニニキネが開拓しています。水田遺跡が希少なのは、三、四千年後の近代まで(あるいは現在も)、継続して水田地帯だからです。アマテルが「天七代」の継続であったように、「弥生」は、(文明的に)縄文の継続に他ありません。縄文は、世界古代文明に匹敵する「日本大和文明」の黎明です。縄文/弥生の時代区分はもはや、不要でしょう。

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近年、縄文ブームは続いており、縄文アゲがすすみ、現代日本人の縄文時代への憧れが強まってきています。一方の、弥生時代は、きわめて恣意的・政治的な時代区分であり、大東亜戦争後の日本人を呪縛してきた怪しげなものです。未開だった日本に文明をもたらしたのは、半島&大陸からきた文明人だった、という虚構の呪縛です。

この小論考は、その後の筆者とらさんの基本的な考えにつながるものであり、わたしにとって重要な提起でした。ホツマ的に考えると、いわゆる弥生時代はアマテル時代とも観ることが出来ますが、縄文と弥生の時代区分は、不要です。弥生は縄文の継続であり、それはヤマトタケの活躍まで続き、その後の古代動乱期に移行していくのです。

上記(↑動画)の見立ては、現代人の意識高い系の考え方をよく現していますが、「水田稲作を半島からゆるやかに受け入れた」という呪縛概念に囚われていて、結論を見誤っています。水稲栽培は、縄文時代から湖沼エリアで広く普及されていて、ニニキネの時代から(つまり紀元前千年頃から)ため池灌漑農業が全国展開され、順次河川の治水灌漑事業も手がけられていたのです。

【ホツマの論点】 ひのもとやまとの甦り 〜伝ゑに極みなし~ <100号 平成30年12月>

 夏から秋の台風では各地に被害が出ました。神社でも樹齢豊かなご神木が倒れるなどの悲しい知らせが相次ぎました。日頃、そのご神木に合掌なさっていた崇敬者の悲しみや如何ばかりと思いを致します。

 ふと考えてみたのですが、神社の社殿とご神木、そのどちらがより貴重なのでしょう。実は、ご神木が老木となり倒れると社殿を傷つける可能性があるからと、ご神木を切り倒すという判断が、今の神社界には、無いとはいえません。

 ですが、考えるまでもなく、社殿は再建できても、ご神木は(お金があっても時が巡るまで)甦らせることは出来ません。では、ご神木が倒れたらその神社はお終い、なのかと云うと、そうではありません。崇敬者に「記憶」があれば、残された「切り株」にも祈りを捧げることが出来ます。つまり、本当に大切なのは「祈り」。どれほど偉大な建造物が残っていても「遺跡」が、所詮廃墟でしかないのは「祈り」が、そこに失われているからです。

 では、「祈り」があれば、目に見えるモノ、社殿やご神鏡、ご神木などは一切不要なのか、と云えば、これも間違い。祈る対象に寄り添うには、「依り代」が欠かせないからです。実は、聖書や経典も「依り代」と看做せます。

 さて、本誌はホツマツタヱをはじめとするヲシテ文献を検証し研究する同人誌です。月日を重ねて、はじめの頃とは格段に深い読み解きが進んできました。優れた先覚者や骨身を惜しまぬ寄稿者、熱心な購読者のお蔭です。難解な原文の隠された本当の意味が少しずつ明らかになってきています。けれども、再びふと考えてみたのですが、「正しい(であろう)解釈・研究」と「原典・原文の継承や普及」と、そのどちらがより貴重なのでしょう。研究と継承は、もちろん両輪なのですが、数奇な伝承を経た奇跡の書です。研究が一時的に途絶えても原文が護持されれば、命は甦ります。逆に、「解釈完了、意味は完訳された」とうそぶいて原文がなおざりにされたら危険でしょう。ひのもとやまとの甦りは、「伝ゑ」にこそ鍵があるのです。

 本誌一〇〇号を記念して、ホツマ出版会では、「ホツマツタヱ原文テキスト(仮称)」の刊行を決意しました。ヲシテ表記とともに五七調の読み下し文を付し、学術論文の「原文引用」に堪えうる水準で、勉強会の教本に便利なテキストを目指します。どうぞ、ご期待下さい。

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小誌発刊100号記念号の巻頭文です。ホツマツタヱなどのヲシテ文献には、解釈に苦渋するところもあります。ゆえにその弛まぬ探究が大切なのですが、より以上に大切なのは、原書を伝えていくことではないかと、とらさんは考えています。

再発見から50年を経て、ようやくアカデミズムにも研究者が出始め、大手出版社の古典研究シリーズにも登場するようになった(表紙画像)ホツマツタヱですが、これまでも何度も焚書・禁書化され、埋もれた歴史を背負っています。全人類にとって貴重なこの書を、しっかりと守り伝えていきたいですね。

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【ホツマの論点】フトマニの読み解きに謹み畏こみも曰す <101号 平成31年2月>

 平野新吉先生が小誌に連載ご寄稿下さる『フトマニ』を読む。本号に掲載された筮歌を拝読して、平成三十一年新春号の冒頭筮歌が、「イヨロ」の歌で佳かったと胸をなで下ろしています。

 アマテル大御神が選者となり自らご添削なさって撰集された百二十八首の占歌、『フトマニ』。それは、古典文学の通説である「鹿の骨や亀の甲羅を焼いて占う上古の占術」とは別物で、天地宇宙の組成を平面的に模写した縄文時代の「時空概念図」に依拠した、精緻な陰陽吉凶判断法則でした。百二十八の占歌は、予め定められた吉凶の度合い、ならびに言霊の性質を表現すべく詠まれた高度な読み込み歌であり、大御神の添削により各々命を吹き込まれたものです。いわば、歌ひとつひとつが、「天神のみことのり」ともいえる占歌なのです。

 いにしえの神々(施政者)は、重要な局面に当たって、潔斎した占者に何らかの方法で歌を選ばせ、その歌意を読み取って、進むべき道を判断してきました。施政決断の道標となったのが、このフトマニです。

 畏れ多くも御世代わりを迎えることになる本年の、年明けの本誌掲載歌は、大吉の歌、二十七番「イヨロ歌」でした。その歌意は、(歴代の天君と比すれば、一見)頼りなげに見える若君であっても、(その本質は)紛れもない尊貴な種であり、陪臣や皇太子が補弼して、(心ひとつに支えることにより)いよいよ皇運は弥栄するのである、というものです。

 ありがたいと、思いつつ次の二十八番歌を読むと、これは、「小凶」の歌です。歌意には、朝廷にとって危険なのは強烈な悪風ではなく、正しいひかりをさえぎる、妖しい霞なのである、と読めます。さらに、二十九番歌、三十番歌と読み進むと、君が宮中の賊に惑わされ、もしも妃を疎んじたときの結末、あるいは、妃がよからぬ思いに執着された場合の悲劇をフトマニは告げています。恐懼しひれ伏すばかりです。

 本来は、宮中に秘伝され、天下泰平と万民豊楽を慈しむ天君ならびに重臣にのみ紐解かれていたのであろう本伝を、今こうして読み解き、親しみ奉戴することの重み、もったいなさを痛感します。少なくとも本伝を手に取るときは、深く自省し、世のため人のために身を捧げる気持ちで学びたいと思う新春でした。

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御世の代わる歳のはじめの巻頭小論です。小誌に連載しているフトマニの歌について書きました。

フトマニは、世界最古級の占術を読み解いた勅撰歌集です。もともとトヨケ大神が世界構造をモトアケ(いわゆるフトマニ図)に表現して、そこから卦を引き出していましたが、アマテル大御神が、さらに施政者にとって常用しやすいように註釈をつけました。その註釈が、歌集となったものです。

いわゆる東洋占術のすべての源流となるものが、このフトマニと、ホツマのヱト暦、そして四方九門の吉凶占いです。

 

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【ホツマの論点】モチコは鎮魂されたのか <102号 令和元年4月>

 箱根に遊覧船の浮かぶ芦ノ湖がありますが、湖畔に九頭龍神社が鎮座します。毎月一三日が月次祭で、この日には特別遊覧船が運航し、数百人の参拝者が訪れます。財運と恋愛運に絶大な御神徳があるという評判で、女性達やスーツ姿の男性が狭い社前を埋め尽くします。

 ホツマ伝承に親しむ者にとって、「トホカミヱヒタメの八元神を祭ることが多い八大龍王とサスラ姫ハヤコの化身した八岐大蛇は、別物」であり「八岐大蛇とコカシラノオロチ(九頭龍)に化身したマス姫モチコは、別種」と認知しています。モチコは、アマテルの初皇子を産んだ名門令嬢であったのに、正后の座をセオリツ姫に「奪われ」愛息も日嗣の皇子に成れませんでした。妬みの奈落の果てに復讐の鬼となり、各地を流離います。

 ヱゾシラタツ岩木山奥宮・白雲大竜神/白神山地/小樽赤岩山白龍神社など推定地あり)で、セオリツをかみ殺すべく潜伏していましたが、津軽の外ヶ浜でシマツウシに成敗されかけたところを逃げ失せます。越の洞穴経て信濃に出たところで、戸隠神タチカラヲによって魂断ちされたと、ホツマは伝えます。本伝に箱根潜伏の記述はありませんが、箱根は愛息から日嗣の地位を「奪った」オシホミミが祀られる聖地であり、セオリツは、弁天神として芦ノ湖湖畔(旧社地は恩賜公園の弁天の鼻)に鎮座してオシホミミを見守っています。モチコにとっては、憎しみの炎に火が付く「羨むばかりの幸せな風景」となっています。ちなみに、ハヤコ八岐大蛇は、ソサノヲに斬られた後、「ヤスカタ(安像)」と懇ろに祀られたので「タマホドキ」されたかと思いきや、イワナガ姫に取り憑き、ニニキネを「奪った」アシツ姫を呪う過ちを繰り返しました。

 箱根神社の社伝は、奈良時代中期に万巻上人が、芦ノ湖で暴れる九頭龍を調伏させて中興したと伝えますが、上人は、ハタレ魔退治で、「タマホドキ」を施したタケミカツチを祭る鹿島神宮に護持寺を建立した人物です。調伏した法力は「タマガエシ」だったのでしょうか。(本号 駒形論文参照)

 ともあれ、「財運と恋愛運」を求めて九頭龍社を崇めるのは止めたほうが良いと思います。「奪われた」と妬む念いは、そのものが「ミノカサ(瘡)」。自らまとっているものだから。(本号「蓑笠神社」参照)

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今年(令和6年)の春分に、箱根芦ノ湖の九頭龍本社に鎮座する弁天社の鳥居が倒壊しました。わたしは、この倒壊は箱根における「結界」の崩壊の帰結とみています。古社の存在は、その位置と祭祀の時とにすべてが規定されています。変えてはならないのです。

五年前の春に、この論考を書いたことに、今さらながら驚きます。来週末には、恒例の芦ノ湖巡り(不二講の修法)を予定していますが、現地でもう一度神々の思いを聴き取りたいと思っています。