縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ⑳「うるわしや」 <105号 令和元年10月>

縄文の教え88 より

イサナギとイサナミが「ことたち」を行った五アヤの「よもつひらさか/黄泉津平坂」での掛け合いは、両神の建国物語のクライマックスです。この時に感嘆詞のように発せられた「うるわしや」と云う用語の解釈は、簡単ではありません。

『うるわしや かくなささらは 千頭お 日々に縊ひらん』ホ5

『うるわしや 我その千五百 生みて過ち なきことお まもる』ホ5

 ホツマ読書人の解釈としては、

①「愛する人よ」という呼びかけの詞

②「実に素晴らしいことだ」という肯定的な詞

③「なんと畏れ多い、哀しい事よ」と否定的な詞

などの解釈に分かれます。

 他の「うるわし/うるはし」の用例としては、

『称えます 國うるはしく 照りとほる』ホ3

『神の御心 うるはしく 禊司お カナサキに』ホ8

『たたみうるわし 神ありや』ホ38

(ちなみに、「うるはし」と「うるわし」は、

イサナギ曰く うるはしや 千五百の頭 生まん」 とて 生みて教える』とホ23には記述されるので、通用するとみるのが定説)

 これらその他の用例からは、肯定的な「麗し」が妥当に思えてくるのですが、五アヤにおける両神の掛け合いは、けして「後味の良かった」相聞ではなく(「悔やみて帰る」)この後に、イサナギの各地でのミソギ修行が連続するのです。ミソギをして気持ちを切り替えようとイサナギが思い立った流れを重視すると、この一連の出来事は「ケガレ」の誘因となったと見なさざるを得ません。

 なので、「憂うべし」とか「潤(い)惜し」などの否定的な(マイナス表現の)語句とみる解釈も成り立ちます。あるいは、「極まることは一転すると逆転する」という世界観に基づいて「恐るべし」「畏れ多い」こと、と云う意味合いの表現とも読むことが出来ます。

 さらに云えば、イサナミの「うるわしや」とイサナギの「うるわしや」は、同じ言葉で、実は、真逆の意味をぶつけ合った「切り返し」であった、と云う解釈も成り立つかも知れません。或いは、本来の原本では、イサナミは「うるわ(悪)し」イサナギは「うるはし」と切り返した(後の写本で混同した)、なんて異説も考えてみると、味わい深いものです。

(駒形「ほつまつたゑ解読ガイド」参照)

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黄泉平坂でのナギ・ナミ両神の掛け合いの文句「うるわしや」は、様々な解釈が考えられます。そして、その解釈の違いは、この挿話の意味を大きく変えてしまします。興味深いところですが、真実の解釈というものが、唯一に定まるとは限りません。
相反するかも知れない解釈の幅があるというところが、ホツマツタヱの魅力ともいえるかも知れません。
古事記日本書紀での表現は、その点で平板な印象があります。「うるわし」と「うるはし」の表記の違いが本来はあったとしたら??? などと考えていくと、もはやホツマの表現は迷宮といえます。
ですが、要は、ホツマに親しむ人が、その時々の自らが置かれた時処位に応じて、もっともふさわしい解釈を味わうことが大切なのではないかと思います。