「やむ」という言葉には、ホツマ時代では元々には「病む」というような意味は希薄で、いわゆる「止む」を意味する「とまる/おさまる/おちつく」という意味合いが原義であったように思えます。
『と詠えば 風やみ船は快く アワに着くなり』ホ1
『ハタタ神なり やまざらば ほおこほさわそ ひなおりと 祈り』ホ18
『その光 照り輝けは ナガスネか 戦いやめて 君にいふ』ホ29
「病気となる」意味では「やめる」と云う語句が一般的です。
『年月お経れともやはり やめるかと心痛めて』ホ4
『やめるお癒やし 鳥獣悪虫祓ひ 恩寵おなす』ホ9
『よよのため やめるお癒やす みちおわけ』ホ10
『はら悪しことは なかるへし はらやめぬ間に たえに諭せよ』ホ13
他方で、現代語としてはあまり使わない「ゑふ/酔ふ」という語句があります。
『八岐かしらの オロチ来て やふねの酒お 飲みゑいて』ホ9
『酒おあたたに 飲ましむる ちち飲みゑひて』ホ38
『こころゑひ もゆる如くに あつけれは 泉に醒ます さめかゐや』ホ40
「ゑやみ/疫病」という言葉は、「酔ふ(ゑふ)」と「病める」が組み合わさったような言葉であり、ホツマ伝承に時々登場し、天君たちは、その対応に苦心します。
『みほの五月雨 四十日降り ゑやみ流行りて いねみもち』ホ30
『直りの祓ひ おこなえば ゑやみも直り いねなおる』ホ30
『神崇め ゑやみたす綾』ホ33
『五年ゑやみす なかば枯る 六年民ちる』ホ33
『ゑやみむけいえ ゾロ稔り 民豊かなり』ホ33
『これ罪人の シイととむ ゑやみ為すゆえ』ホ33
『めをおえは 望の朝(あした)は ヒモロゲの あつきの粥に ゑやみよけ』ミ7
この様に考えると、縄文人たちは、心躰に何か異物もしくは過分なもの(酒や邪念など)が入り込んで、正常な働きを阻害された状態を「ゑやみ/疫病」の状態と考えていたように観ることが出来そうです。
治癒とは、元の状態に直すことであり、本来の姿を取り戻すこと、と理解していたのでしょう。
(駒形「ほつまつたゑ解読ガイド」参照)
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コロナ禍において、全国の寺社はその存在意義を見失い、祭りを自粛縮小し、祈りを封じ込めてしまいました。疫病を封じ込めることをせず、祈りを封じ込めてしまっていたのです。
まさに、社会全体に「何か異物」もしくは「邪悪なもの」が入り込んでいた状態だったいえましょう。「ゑやみ」ていたのです。
その異常状態から、私たちはまだ恢復しているとはいえません。実に、慢性化しているとみても良いかもしれません。経済が見た目回復して、株価が史上高値を更新し、新札が発行されても、「不安」と「恐怖」は、まだくすぶっているのです。
本来あるべき「祈り」が再興されなければならないのでしょう。
オオタタネコが「あるべき祈り」を甦らせたように。
(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)