お正月に「鏡餅」をお供えします。ホツマ伝に「カガミモチ」の用例はありませんが、1アヤに「はつひもち あわのうやまひ」があり、この解釈には「元旦に餅をお供えして」という解釈と「朔日と望日(十五日)に」という解釈があります。ですが、ミカサのなめことのアヤには「はつひより(略)わかめみつくみ しとぎもち」とありますので、元旦に「若水を汲み、餅を捧げた」ことは確かです。「あわのうやまひ」天地の神々に祈ることを日本人は大昔から続けてきました。
うまやどさんは、正式な鏡餅にある「橙・干し柿・丸餅」を「ミクサタカラ/三種神器」のモノザネと解釈されています。餅は「八咫鏡」干し柿は「八重垣ツルギ=八ヶ柿つるし」橙は「斗(ト)の教ゑ」を表します。
門松は、「餅にハヱ敷き ウケ神に 祝ふ 穂長と ユツリ葉の ほつま遊びの 瑞穂歌 楽し賑わふ トヨの国 三十二の県 みな流行る 門松・ハヱ葉 ユツリ葉も 春 しきかざる モトオリや」ホ25
に用例があります。もともとはニニキネとウツキネの井堰開墾により豊かになった筑紫の民が、五月の御田植祭に楽しんだ予祝祭が、新春正月祭りの源になったとホツマは伝えます。
現在は、松竹梅を盛り込みますが、室町時代以前は「松/雄松と女松」を素朴に立てて、歳徳神(トシノリカミ/暦を司り、収穫を守護する神)をお迎えする依り代としていたと民俗学者ではみています。
「マツ」には、「待つ」の意味以前に「真つ/ホツマのマ」と「合つ/和つ」すなわち対象となる(聖なる)存在と合一して和する意味があると駒形さんは指摘します。「祭り/祀り」のマツであり「奉り」の精神と姿勢を表す意味があります。
「カド/門」には、出入り口という意味と、内外の交差点、過去と未来の交差点(まさに今)という意味があります。時空の結界となる大切な場所です。
今日では「門松紙」という門松の絵を紙に印刷して元旦の店先に貼る安易な風潮もありますが、冬枯れしない松を一枝でも門前に捧げて「あわのうやまひ」したいものです。
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ウナギ食べたい夏の日にお正月の話も、如何なものですが、過去記事です。
正月飾りは、もちろん我が国の縄文からの習い事なのですが、あまりに当たり前すぎてその意味をあまり考えようとはしません。けれども、数千年の年月を越えて今なお伝えられるその「カタチと作法」には、深い意味があります。
日本の古い習俗を、大東亜戦争後の日本人は何でもかんでも「シナ伝来」「コリア渡来」と説明しがちですが、その本源はまごうことなく純縄文伝来です。
鏡餅のてっぺんにのる「ダイダイ/橙」は、「タチバナ/橘」と同じく、バラ系のミカン科の樹果ですが、古代縄文人は、ダイダイもタチバナも同一視していたのではないでしょうか。蜜柑を横半分にザクッと切ると、そこには「菊花紋」が現れます。太陽と同じような燃えるオレンジ色、かぐわしい香り、しかも萎れない強い生命力。縄文人は、橘や橙を、日月の「日」の徴として尊重されたのです。
林さんちの鏡餅 素敵です ↑
辻中公さん 初めて拝聴しましたが、とても良い感じ ↑