縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマの論点】 「ふとまに」哲理を読み解く <77号 平成27年2月>

 一般的には【「古代の占いの一種。鹿の肩甲骨を焼き,骨のひび割れの形によって吉凶を判断する。「天つ神の命(みこと)以ちて,━に卜相(うらな)ひて/古事記上」】(大辞林 第三版)という理解の範疇にある「ふとまに」なる難語が、ヲシテ文献のひとつであり、正しくは「もとらつたえの文」(序より)を通称する語に由来すると云うことは、ホツマ伝承愛好者のよく知るところである。

 その本来の意味は、モトアケに坐す四十九神とその四十八の言霊で表される万象の摂理にあり、陰陽変転のサコクシロすなわち天地万有のメグリを写す意義にある。古神道を喧伝する一部で「フトマニ・クシロ」なる用語を使うのはその訛伝であろう。

 現代風には「宇宙原理」とでも呼べそうな「ふとまに」哲理。アマテル大御神は、それをモトウラ(基)としたウタを神々(指導者達)に詠ませ、自ら添削し、百二十八歌に纏めて、天意を仰ぎ自省を促す占いの文「フトマニ」を編んだ。しかし、本伝はいつしか地下水脈に閉ざされてしまった。

 以来、我が国では神意天命を拝受する秘法として「ふとまに」なる作法があったようだが、何者かにより「太占」と表記され、鹿や亀の甲羅を焼くのか、粥を炊くのか、天津金木がそうだとか、鏑矢が正しいとか、喧喧囂囂、定まらなかったのである。

 ホツマ伝承愛好者も、フトマニの原文は知るがその哲理の解明となると、深い霞の彼方にあったと云うのが実情ではなかったか。
その謎が、今、漸くにして解明されようとしている。

 すべてはウタにある。

 古今和歌集の序で歌の種を説明する六つの例歌のうち、四歌はフトマニ中の歌に非常に近似しており、しかも四つともフトマニの「何ヤマ」の歌に当ることを本誌寄稿者の駒形一登氏は指摘する。能の演目「歌占」では、伊勢の神職度会某が甦生して和歌で吉凶を占う占者として諸国を巡る話がある。また、菅原道真の夢告によるとする『天満宮六十四歌占』では、六十四首の和歌で吉凶を占っている(亀戸天神社で今でも頒布)。そもそも、「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」の歌は、「フトマニ」アキニの歌「こちにひもとけ つみのかる」の歌意に依拠していると考えられる。即ち、道真は「フトマニ」(あるいは引用したホツマ文献)を知悉していたのである。

 このように、歌と占いをつなぐ「記憶」は、確かに存在し続けていたのだ。
刮目して、平野新吉氏のふとまに論考(新連載)を読み進めたい。

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今なお連載の続く、平野新吉氏のフトマニ論考が、新連載として始まった時の小誌の小論考です。ヲシテ文献のなかでも最難関とされる『フトマニ』ヘの取り組みが、この時に始まったといっても過言ではありません。

我が国の和歌のながれに、たえず伏流水として流れてきた謎の歌々の撰集である、フトマニ。占いであることは明らかでしたが、どのように占うのか、なぜその卦の判断に結びつくのか、大きな謎でした。

平野新吉氏の考究は、写本筆記者がのこした和仁古安聡の和歌註釈を読みとり、さらにそれをフトマニ図に落とし込み、丁寧に検証されてこられました。

わたしとらさんのフトマニ解釈は、また別の角度から光を当てたものですが、この平野解釈に大いに刺激されて生まれたのです。

 

(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)

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