縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマ辞解】 ~大和言葉の源流をさぐる~ その④「ほつま」と「やまと」中編 <92号平成29年8月>

 ヲシテ文献で使用される大和言葉を取り上げ、今に伝わる言葉との差異や、その言葉が生まれる成り立ち、深い意味、関連する言葉との比較などを探ります。

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 地名としての「ほつま」は、元々は東国(琵琶湖以東)全体を指していましたが、勿来以東がヒタカミに、安倍川以西がコヱとして区分されるようになり、今日の関東地方と、富士山周辺地域を云うようになりました。

 一方の「やまと」は、「ナカクニ」の中心都市から、ナカクニ全体、本州全体までを指すように(天照大神存命中は拡大傾向に)なっていきました。前号でふれたように、「やまと」とは、本来、天照大神のご威光が行きわたる「靖国(平和な国体)」の美称であるからです。ですが、ナガスネヒコの専横が顕著になった一時期、その覇権領域を指す地域国名となります。そして、タケヒト(神武天皇)のヤマトウチ(東征)以降は、再び、天朝の知らしめる全国土の中心領域を云うようになっていきます。

 この「ヤマトウチ」のきっかけとなった流行歌に
 【 のり降せ ほつま路(ぢ)
   弘(ひろ)む 天も磐船 】 があります。

 これは、「ホツマ国」を糺せ、という意味ではなく、「ホツマ」施政精神に則って、(乱れた「ヤマト国」に)天誅を下せ、という声なき声をつたえる歌です。この時点では、「ホツマ」は「ヤマト」に対し(語句の価値観で)上座にあったと云えます。

 しかし、神武朝以降、形勢は逆転していきます。
【 四月十九日ツミヱ 勅 ヰソサチ立てて
 世継御子 トヨキイリヒコ ホツマ司ぞ 】ホ34アヤ

 崇神天皇の御世にヤマトからホツマへ地方長官のような役職者「司(つかさ)」を赴任させています。

 さらに、景行朝には、
【 タケウチに ホツマ知るべの 勅 北より津軽 ヒタカミや 橘(かぐ)の館に 道を聞く 】ホ38アヤ

 武内宿禰をして、「ホツマシルベ」という官職で赴任。「シルベ」とは、外交諜報官のような役職と推測されます。既に、潜在的「朝敵」待遇といえます。

 本伝が奉呈された頃には、けして神聖語句では無くなっていた「ほつま」。ですが敢えて、「ほつま伝」と冠した真意には、本朝の施政精神に「原点回帰」を希求する想いが込められているのでしょうか。

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ホツマツタヱの書名に冠された「ほつま」。それは、東の理想国という神聖な意味を持っていました。アマテルとニニキネの治世で築かれた、ヤスクニ(靖国)が「ホツマ国」であり、皇道聖治を「ホツマ路」と称えていたのです。

けれども、時代が降ると、「ホツマ国」が、朝廷に対する「敵性国家」と位置づけられているような記述が目につくようになります。その評価は、タケウチスクネの隠密行動などに増幅されるのですが、ヤマトタケとオオトモタケヒの正論によってひとたびは関係正常化されます。このあたりは、ホツマツタヱ物語のクライマックスともいえるところで、景行天皇後の国内争乱を予感させるものになっています。

さて、ヤマトタケやオオトモタケヒ等の霊脈は、その後ゆるやかに歴史の表舞台から追いやられていきます。その復権は、太平の世を築いた徳川家康の登場までお預けとなります。

武内宿禰が長寿であったことの理由の鍵が、ホツマツタヱには記述されています。

 

(とらさんは、no+e ブログでも投稿しています)

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