縄文叙事詩ホツマツタヱ

検証ほつまつたゑの編集長とらさんがリリース

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊵「あな」 <125号 令和5年2月>

縄文の教え88 より

 古語辞典で「あな」を引くと「感情の高まりから発する語。喜怒哀楽いずれにも使う」(三省堂全訳読解第三版)とあります。ホツマでは、

両神 叔母を 称ゑます キクキリ姫も あなかしこかな』ホ4

『なく皇子の 声ききとれは あな嬉し』ホ4

『あはれ あな面白 あな楽し あなさやけ おけ さやけ』ホ7

『あなありかたや あなにゑや あな嬉しやと をかみさる』ホ17

『八咫の鏡の 御名のアヤ いとめくみなり あなかしこかな』ホ17

 と云うように、良い感動を表す表現に頻出しています。「嗚呼、なんとも、実に」などの語感です。

 駒形氏は、「上がる・勢い付く・栄る・熟れる・優れる・中心にある・至る」などの意、と捉え、「いさ」や「いと」を類語としてあげています。

 一方の「穴」は、基本的にマイナス評価の語であり、「劣った」「下がる」「勢いのない」「空虚な」語として使われます。「穴に棲む」人々を「劣った存在」としてみなしていた表現も目立ちます。

 開化天皇七年正月項に、イキシコ媛を中宮に立てる事件があり、オキケヌシが諫めます。シラウドコクミが母犯す悪評が、今も記憶されていることを知らないはずは無かろう、と苦言したのです(本号清藤訳参照)

 この時のオミケヌシの憤慨は、

『汝が政事 諫めずて おもねり 君を アナにする 心汚し』ホ32 でした。

 この「あな」は、「穴」だったのでしょうか。そう捉えると「天君を『ダメな劣った存在』とする」と云うかなり過激に直截的な表現です。臣としては、ギリギリの危ない一線に有る表現と云えますね。

 「喜怒哀楽」それぞれに使う感嘆詞として捉えると「嗚呼なんとも嘆かわしいお立場」「いやはや前例のないご無体な」あたりの表現に留まるかも知れません。

 いずれにせよ、この諫言事件でオミケヌシは、謹慎し、タカマから去ることになります。

 中世以降は古語「あな」は「あら」として使われることが増えます。「あら、、や」「あら、、かな」などの形で、哀愁や後悔、はかない望みを表す表現が目立ちます。下野したオミケヌシは、自身の境遇を何と省みたのでしょうか。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 古神道富士信仰に残る「あな ありがたや(し)/あな かしこし」という文言は、神徳、恩寵に対する感謝の言葉です。「あな」とは何でしょう。
 中世以降は「あら」と変形していきますが、縄文時代から続く日本人の感嘆詞なのですが、その語源は、明確ではありません。
 「ああ、なんとも」の略語という考え方、「あ(天)な(無)」という捉え方、あるいは逆に「あ(天)な(成/為)」という見方もあり得ます。
 総じて、縄文時代では「天成(あな)」として天恵や喜びに感謝する伸び伸びとした表現が目立ち、後世には、段々と哀愁や悲しみに「天無(あな)」と嘆くシーンが増えてくるように思います。
 天恵を失った世界では「あちゃー」なのでしょうか。
 でも、嘆くばかりでは、情況は好転しません。「くじけず、めげず」に「あな嬉し、あな面白、あな楽し」の世の中を描いていきたいですね。

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まったく関係ないけれど、気になった動画ニュースを紹介します。

 

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊴「けくにとみ」と「いわひぬし」 <123号 令和4年10月>

縄文の教え88 より

アマテルが基を築いた徳治の原則には、両羽の臣による分権輔弼の仕組みがありました。鏡の臣と剣の臣によってバランスをとる、という近代の三権分立にもつながる治政の要諦でした。けれども、神武の大和朝以降は、両羽制が形骸化されていきます。その代替えに生まれたのが「食国臣/けくにとみ」と「斎主/いわひぬし」です。

「けくにとみ」は、先ず「みけなへまつりもうすをみ/神饌供え祭り申す臣」として、コヤネの孫であるアメタネコと鰐彦クシミカタマが、神武の大嘗祭の折にふたりで任命されました。ユキ・スキの宮に神饌を供えて、天地の神を祭り供奉しました。この時は祭事の臨時官であり、常設ではなかったようです。

その後、二代綏靖天皇が、ウマシマチを「くにまつりみけなへもふすをみ/国政り神饌供え申す臣」として常設官に任命しました。この役職が後に、「けくにとみ」あるいは「まつりのとみ」として呼称されるようになったようです。

そして、それは後の律令制における「太政官/おおいまつりごとのつかさ」につながるのでしょう。

「いわひぬし」は、東征中の神武が丹生川にアサヒ宮を勧請してアマテルとトヨケを祭った際に、ミチヲミ(道臣命)を任命しています。

『斎瓮を作り 丹生川の ウタに遷せる アサヒハラ アマテル・トヨケ 二祭は ミチオミぞ』ホ29

やはりこの時は、祭事の臨時官でしたが、三代安寧天皇が、ウマシマチの孫のオオネを常設の「いわひぬし/斎主」に任命しています。

タケイイカツと イツモシコ なるケクニ臣 オオネ臣 なる斎主』ホ31

 ちなみに、この時に「けくにとみ」になったイツモシコとは、やはりウマシマチの孫でオオネの兄です。

 この「斎主/いわひぬし」は、鏡の臣の大役であった「最高裁判事と厚生福祉」の役回りが削ぎ取られています。後の律令制における「神祇官/かんづかさ」につながる役職と云えましょう。

 神武以降の大和朝では、アマテルの治政以降、ほぼ世襲であったカガミトミ(カスガ系)とオオモノヌシ(ソサノヲ系)を国政実権から遠ざける意図がはたらいていたとみる見方もあります。

中央政府の強大化とともに、徳治政治から律令政治へのうつりかわりがあるように思えます。

(駒形「解読ガイド」千葉「甦る古代」参照)

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 古代史を勉強すると「物部氏」という古代氏族の謎に辿り着きます。現代のアカデミズムの「定説」では、「物部氏=出雲系」と理解されています。これが全くの間違いであることが、ホツマツタヱを読むとわかります。
 アマテル神が樹立した三権分立「みやことり(制)」は、神武以降は形骸化されていきます。左の臣と右の臣が分掌する原理は崩れ、簡単に言えば、中央集権化されていくわけです。その推進母体となる古代氏族が物部氏です。
 ソサノヲに連なる大物主系(物部氏とは異なる/ =三輪・賀茂系)と、アマノコヤネに連なる春日系(後の中臣・藤原系/鹿嶋・香取とも繋がる)の二代有力氏族は、神武以降は「敬して遠ざける」施策で、政権中央から引き離されていきます。(春日系は、物部氏の没落を受けて後に復権します)
 左右の臣の無力化で生じたスキマを埋める形で誕生したのが、「けくにとみ」です。人皇二代綏靖天皇以降に、その傾向は強まり、律令制太政官に繋がっていくのです。

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縄文の教え88 より

日本国は縄文期の徳治国家から、律令制国家となり、武家政権樹立後も不思議なことにその屋台骨は生き残りました。明治大帝は、徳治国家の復権を強く意識しましたが、内務官僚による「集団的太政官制」が成立し、世界情勢により官僚軍事国家として近代を邁進したのです。

 

 

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【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊳「やまさかみ」と「うをまさ」 <123号 令和4年10月>

ウツロヰの神は、捉えどころの難しい神さまです。

ホツマに登場する神々は、そのほとんどが「人格神」であり、生前は「○△守」「○△主」という意味の「カミ」として地方や役職を司る方々でした。つまり、元は生身の人間です。逝去した後も、偉大なる貢献をした「○△神」として祀られるという存在です。

しかし、「自然神」として天地の威力を象徴する神々や、一種の「霊格神」として時間や空間、あるいは健康や幸福を象徴する神々も認識されていました。

「やまさかみ/八将神」は、人間生活において主要に影響を及ぼす八つの「自然神・霊格神」を総称したものです。

1.ウツロヰ (空)  2.シナトベ (風)  

3.カグツチ (火)  4.ミヅハメ (水)  

5.ハニヤス (土)  6.オオトシ (豊作) 

7.スヘヤマズミ (治水・治山)  

8.タツタメ (鎮火・鎮浪) 

「あいうえお」の五大を構成する「空・風・火・水・土」が、各々神となり、また、それらを制御することで自然災害から人々を守り、福祉と豊穣をもたらす力を同様に神と称えました。

ウツロヰは、「八将神」の筆頭に位置づけられています。空間、時間を司る神格で、雷(ハタタ神)や地震も支配していたと認識されていたようです。ニニキネのニハリ宮建造を邪魔してアマテルから「八将神からの降格」を申しつけられそうになりましたが、ニニキネが懇願して許されました。

その縁で、ニニキネを尊崇し、ニニキネの偉業を助けます。「うをまさ/をまさきみ/うおまさかみ」は、ウツロヰが、ニニキネから賜った名です。

ウツロヰは「うつろもり/空守」です。「うつろ」は時空間の「ま/間=魔」を埋める存在なので、計り知れない力を秘めているとみなされます。欠けると整わない、制御しないと祟られる、厄介な神さまなのです。

火山爆発もウツロヰの仕業です。雷は天からの爆発で、噴火は地からの爆発だからです。一方では鉱物は火山活動と関係があると認識されていましたから、ウツロヰは「金神」でもあります。

『鳴神の 主 東北守 ウツロヰの 大将君 とぞ トシノリに やしろ賜わる』ホ21

「をまさきみ/大将君」が後世に「大将軍」となり、東北=丑寅の「金神」と民間信仰で畏怖される神格となっていきます。

(駒形「解読ガイド」千葉「甦る古代」参照)

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 本稿「ほつま辞解」の㉛番で「やまさかみ」を書きましたが、「八将神」と陰陽道での「大将軍」との関わりを再度押さえておこうとして、書き足した考察です。
 ウツロヰ神の別名で、ヲマサカミ・ウヲマサカミとホツマでは記述しますが、「ヲ」「ウヲ」を漢字で、「大」と翻訳したために「大将軍」となっていったのですが、もともとの「ヲ」は、「央」「中央」であり「央坐神」と考えられます。
 「からっぽ」の中央神であり、「魔境」の主宰神です。つまり、
 「空きを埋める帝王・穴埋め大王」のような意(駒形一登)。
『一年これ "ヱ・ト" に侍る 三十の守 日々に替りて 六十日守る 六還の嘗事』ミ7文
『ウツロヰの 年越瀬前 大晦日 初六日・十四日 五月の三十日 総べ一年守る 嘗事ぞこれ』ミ7文
『もしや汚曲の 障いせば あらかねの埴を ウツロヰの 大将神の マサカリや』ミ8文
 などといった「遊行性」「方位性」「金との親和性」がミカサフミに記述されており、それが外地において様々な宗教観と習合し、後にまた我が国に里帰りしたうえで複雑な神学形成がなされました。 

複雑に習合した展開がこれ ↑ 泰山府君クニトコタチ、盤牛王は天御祖神であると押さえて視聴すれば、それが縄文日本起源であるとよくわかる

通常は撮影禁止の展示室を丁寧に撮影しているので、必見 ↑

大勝利八神社以外も、サラリと参拝しましょう ↑

 

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とらさん原田峰虎|note

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊲「みもすそ」 <122号 令和4年8月>

 

ホツマ辞解⑰で「かも」「あも」「みたらし」を取り上げました(104号令和元年8月)。「上下」をへだてなく慈しむ心がけが、「斗の教ヱ」の根幹にあるのですが、それを表現する重要語句が「(み)もすそ」です。

天縫(ぬ)うなる 御衣(みは)の所縁(ゆかり)は
御師使(サヲシカ)の 裳裾(もすそ)に満つる
恵み縫うなり 【フトマニ5番筮歌 大吉の卦】

というフトマニ歌や、

『裳裾の 民を撫でつつ サオシカの 清きに尊は ありと言えき』28文

『神裳裾の サコクシロ内 改めて アマテル神の 内つ宮  八百仕ふ守  侍べりて ヒモロケ捧げ  天に応ふ』28文

『時に神 眼を開き曰く 汝よく 忘れず来たる 裳裾よ 乞ふはこれぞ と 授けます』28文

『昔ハタレを破らんと 禊なす時 神の裳の 岩に懸かりて ひた引けば 滝落ち下る サクナダリ』28文

『シムミチ破る 器得る 穢禊して 器得て 六ミチを破り 治む民 みな裳裾の 流れなり』28文

 この如く、天地巻の最終章となる28アヤで重ねて解説される重要語句が「(み)もすそ」です。

 なかでも、鏡の重臣アマノコヤネ逝去に際し、忠臣サルタヒコが馳せ参じ、コヤネを甦らせて教えを授けられた極意が、『「みもすそ」よ。』であったというのですから、意味深長です。居合わせた、或いは噂を聞きつけた神々が「一体どういう意味なのですか」と尋ねるのも無理ないことでしょう。

 この重要語句を、限られた紙幅で解説することはムリですが、桓武天皇の勅により日吉大社の神山である八王子山に「ホツマツタヱ」写本を奉戴護持した最澄伝教大師最澄が書き残した「山家学生式」に次の言葉があります。

 「一隅を照らす」

 最澄は続いて「悪事を己に向け、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」と諭しました。

 ともすれば見落としがちな些細なものごと、ちいさな命の存在にたえず気を配り、足元、裾野の輝きこそが自身の輝きの源なのだと、アマテル神は確信し、大御心を発現されました。最澄は、その大御心を学びなさいと学僧に訓示されたのです。

 ご皇室の方々が示す「寄り添う心がけ」は、もちろんその「みもすそ」精神の発露なのです。

(駒形「解読ガイド」千葉「甦る古代」参照)

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 伊勢のウチミヤの入口は宇治橋です。宇治橋の架かる川の名前は五十鈴川ですが、御裳裾川という別称があります。
 「倭姫命が御裳のすその汚れを濯いだという伝説」がある故と、説明されますが、そんな浅い話ではありません。「みもすそ」は、縄文の教えの神髄である「斗の教ヱ」「天成る道」に至る重要な心構えを説く言葉であったのです。
 「宮川の 清き流れに 禊ぎして 今も浄むる 我が身なりけり」と云う歌は、猿田彦神が伝える道歌ですが、サルタヒコ神が、生涯追い求めていた徳目が「みもすそ」でした。
 「おおみこころ/大御心」と尊称して、ご皇室がわたしたち臣民に恵み垂れるお心くばりに、わたしたちは感謝するわけですが、聖上が、わたしたちに寄り添うお志が「みもすそ」です。そして、それは総べて人の上に立つ司、教師、親が、それぞれ我が身に置き換えて、実践すべき徳目なのです。
 ホツマツタヱをの神髄をよくよく体得されていらっしゃった伝教大師さまが、「仏道」を学ぶ学徒に伝えたかったのも、この徳目であったのでしょう。

なんて素敵なご家族なのかしら 

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【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊱「よそや」と「としめぐりひ」 <121号 令和4年6月>

縄文の教え88 より

 今の世の日本人は「四十九日」や「祥月命日」を仏教がもたらした習俗と考えている人が多いですが、もちろんこれらは縄文ほつま時代からの習いです。

 「よそや」は、故人が神上がりした日の夜から毎晩「もがり」のために専用に設けた一室(原型は洞窟)に籠もって初夜から四十八番目の夜まで祈り続ける弔いの儀式です。

 フトマニ図「瓊璽(たまヲシテ)」の如く鎮座する天空の神々は四十八座いらっしゃるので、その一つ一つに毎晩祈りを捧げるのです。そして、それが明けた四十九日目が「忌明け」となるので今でいう「四十九日」がありがたいわけです。

 『キ・ミの喪祭 四十八済み 御言に任せ 骸を イササワケ宮 "契の神"』ホ27 『御子 喪を務め 四十八済む 三十二集まり 上ぐる名は "ツクシ皇"』ホ27 『オシクモは 四十八喪に入り 山背の オシホに納む 東向き』ホ28

 などなど、残された御子が「よそや」の祀りを真心込めて捧げる姿はホツマに何度も記述されますが、その原型を定めたのは、アマテル神です。

『大御神 神言宣は "あわの数 経て喪を脱ぎて 政聞く 歳巡る日は 喪に一日 その身柱に 祭るべし"』ホ26

 つまり、大御神が「あわの数」つまり四十八夜=「よそや」の祀りを終えてはじめて「喪」を脱ぐ、明けると定め、また「歳巡る日」=「祥月命日」祀りを定めたのです。

 「よそや」祀りを捧げる一室は「もや/喪屋」と呼ばれ、ここで「もがり/殯」の祈りを捧げるのです。「もがり」とは「行ったり来たり」迷う「たま」を潔く「ほどけ」させて天空/アモトへと還してあげる祈りであると考えられます。四十八夜の間は「よもつひらさか/黄泉別境」に漂っているので、戻って来ないように送り出す、見送る祈りです。

 そして、毎年「としめぐるひ」に天界に還った故人の「たま」を呼び寄せて、親しくご接待するのが「祥月命日」のお祀りです。もはや「なきみ/亡骸/ご遺体」は形がないので、「身柱」つまり故人の身長に合わせた柱を依り代として飾って、そちらに降臨するよう誘っておもてなしをするのです。日本仏教の卒塔婆や御位牌は、その変形なのです。

 つまり四十九日のお祀りや命日のご法事は、アマテル大御神の教えに寄り添っているわけです。

(駒形一登「解読ガイド」参照)

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 もうすぐお盆となります。お盆は、先祖祀りをして、子孫が元気に暮らす姿を観ていただく行事(おこない)です。盆踊りでは、かならず両手を空に向かってあげて「輪をつくる」所作を行うのは、天空にますご先祖の魂にその姿を良く見せて、また、ご先祖さまの恩恵をありがたく戴こうとする祈りの所作であるからです。
 お盆が、そもそも仏教の教えに基づくものではなく、縄文の教えであるように、四十九日の法要も、命日のお祀りも、その根っこは仏教にはありません。ホツマツタヱを読むと、四十八夜のお籠もりと祥月命日のご供養は、アマテル神が厳格に明確化した行事(おこない)であることを知ります。教えの親であることを実感いたします。

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縄文の教え88 より

まったく、今回のテーマと関わりがない(ように見える) ↑
森永卓郎はメディアで活躍していた頃から、大嫌いだが、この番組は、味わい深かった。生きる意味、教えと学びの意味、幸せとは何かを考えさせられる。
ウィキでみると御年67歳か。ライザップに挑戦してた頃に、今の境地に達していたら、とも思うが、まあ人生いろいろだ。

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㉟「ひ」「ふ」「み」 <120号 令和4年4月>

ヲシテ文献にみる数詞は、「ひ」「ふ」「み」「よ」「ゐ」「む」「な」「や」「こ」「と」が基本です。大和言葉の一、二、三、、、十として今日も「なんとなく」当たり前に数えられているとお考えの方、大間違いです。

実は、日本古来のこの数の数え方と云うのは、もはやヲシテ文献以外なくしては、もはや追究できない幻の言葉となっているのです。試しに手元の国語辞典や古語辞典をお調べ下さい。「ひ」「ふ」「み」どれひとつも(一部例外はあるものの)見出し語として取り上げられていません。特に古語辞典はひどい。

「ひ」は、「ひと= 一十/真全」の「ひ」。「ふ」は「ふたかみ」の「ふ」。「み」は「みくさたから」の「み」。どれも大切な和語であるにもかかわらず現在は黙殺されています。ネットで、「ひふみ」を調べると「ひふみ祝詞」がヒットして、「カルトな呪文」だとか、「ひふみ=危険」とかの括りで論じられています。石上神社で正統に伝承される古伝の祓詞であるにもかかわらず。

ホツマでは「ひと」「ふた」「みつ」「よつ」「ゐつ」「むつ」「なな」「やつ」「ここ」「とお」の二音語も記述されます。また、「と十」は「そ」とも記述されます。

ヲシテ文献での数詞には、跳ね文字(レ)が使用されます。また、その母音は、「え」母音が存在せず、「な」と「や」は、「あ」段の母音語です。

ちなみに「百」は、「も」か「もも」。「千」は「ち」。「万」は、「よろ」か「よ」。さらに「十万」が、「ます」。そして「億」は「はかり」。

 特殊な数詞としては、ツヅ歌(連歌)に語源のある、「十九= つづ・つす」

「二十 = はたち・はた」

「三十九 = はな」

「五十九 = さつめ」

「七十九 = ふつめ」

「九十九 = つくも」などがあります。なかでも、ハタチ(二十)やツクモ(九十九)は、今でも馴染みがありますね。ハタチは、ツヅ歌で使用する折り紙が二十首で区切りとなるので「端断ち= ハタチ」からきており、ツクモは、満了の百首目につながるひとつ手前、すなわち「着く百= ツクモ」に由来する数詞です。

 縄文人は、数の神秘にこだわりを持っていたようですし、その「音感」にも独特の感性を発揮していたように思えます。「和歌」の三十一文字にも神々の巡り合わせを感じ取っていたようです。

(駒形「解読ガイド」千葉「甦る古代」参照)

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 「ちち」「はは」「を」「め」「こ」「いえ」など家の周りの言葉というものは、「基本語」であり、古い歴史を経ても変わることがないものです。「よし」「あし」などの認識の言葉にも基本となる言葉があります。技術や科学の言葉の基本には、「数詞」があります。ものを数えることがなければ、技術や科学の始まりはないからです。
 ですが、その大切な基本語のひとつである「数詞」は、現代日本語では、大和言葉ではなくなってしまっています。不思議ですね。(「イチ、ニイ、サン、シー、ゴー、ロク、シチ、ハチ、クー、ジュー」を時々「、、、なな、ハチ、クー、、、」とたまに「7」だけ大和言葉で数える方もいらっしゃいます。大和言葉の「なな」は、他の数詞が「みつ、よつ、ゐつ、むつ」と「某つ」なのに、7だけが「なつ」ではないことも不思議ですが、、、それは棚上げして)
 「数詞」が、大和言葉でないことの所以は、いわゆる「大蔵系(財務系)」官僚が、大和言葉ではない国々からの帰化人に席巻されてしまったからではないかと、筆者は考えています。古墳時代の大昔の話です。もちろん今、財務省反日系日本人に牛耳られていますが、大昔の大蔵系が、反日帰化人だったと主張しているわけではなく、むしろ親日努力家であったと思いますが、、、
 それでも、生活風習にまつわる数詞は、つい先頃まで、大和言葉でした。数詞の大和言葉を取り戻すことは、日本人が甦るためのひとつの鍵かも知れません。

以前も紹介していますが、必見の番組です ↑

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縄文の教え88 より

48と云う数字も、とても大切です。 ↑

 

 

【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㉞「もち」と「かとまつ」 <120号 令和4年4月>

https://wa-gokoro.jp/event/annual-events/689/  ワゴコロより

お正月に「鏡餅」をお供えします。ホツマ伝に「カガミモチ」の用例はありませんが、1アヤに「はつひもち あわのうやまひ」があり、この解釈には「元旦に餅をお供えして」という解釈と「朔日と望日(十五日)に」という解釈があります。ですが、ミカサのなめことのアヤには「はつひより(略)わかめみつくみ しとぎもち」とありますので、元旦に「若水を汲み、餅を捧げた」ことは確かです。「あわのうやまひ」天地の神々に祈ることを日本人は大昔から続けてきました。

うまやどさんは、正式な鏡餅にある「橙・干し柿・丸餅」を「ミクサタカラ/三種神器」のモノザネと解釈されています。餅は「八咫鏡干し柿は「八重垣ツルギ=八ヶ柿つるし」橙は「斗(ト)の教ゑ」を表します。

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橙・干し柿・餅の意味は?

門松は、「餅にハヱ敷き ウケ神に 祝ふ 穂長と ユツリ葉の ほつま遊びの 瑞穂歌 楽し賑わふ トヨの国 三十二の県 みな流行る 門松・ハヱ葉 ユツリ葉も 春 しきかざる モトオリや」ホ25

に用例があります。もともとはニニキネとウツキネの井堰開墾により豊かになった筑紫の民が、五月の御田植祭に楽しんだ予祝祭が、新春正月祭りの源になったとホツマは伝えます。

現在は、松竹梅を盛り込みますが、室町時代以前は「松/雄松と女松」を素朴に立てて、歳徳神(トシノリカミ/暦を司り、収穫を守護する神)をお迎えする依り代としていたと民俗学者ではみています。

「マツ」には、「待つ」の意味以前に「真つ/ホツマのマ」と「合つ/和つ」すなわち対象となる(聖なる)存在と合一して和する意味があると駒形さんは指摘します。「祭り/祀り」のマツであり「奉り」の精神と姿勢を表す意味があります。

「カド/門」には、出入り口という意味と、内外の交差点、過去と未来の交差点(まさに今)という意味があります。時空の結界となる大切な場所です。

今日では「門松紙」という門松の絵を紙に印刷して元旦の店先に貼る安易な風潮もありますが、冬枯れしない松を一枝でも門前に捧げて「あわのうやまひ」したいものです。

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 ウナギ食べたい夏の日にお正月の話も、如何なものですが、過去記事です。
 正月飾りは、もちろん我が国の縄文からの習い事なのですが、あまりに当たり前すぎてその意味をあまり考えようとはしません。けれども、数千年の年月を越えて今なお伝えられるその「カタチと作法」には、深い意味があります。
 日本の古い習俗を、大東亜戦争後の日本人は何でもかんでも「シナ伝来」「コリア渡来」と説明しがちですが、その本源はまごうことなく純縄文伝来です。
 鏡餅のてっぺんにのる「ダイダイ/橙」は、「タチバナ/橘」と同じく、バラ系のミカン科の樹果ですが、古代縄文人は、ダイダイもタチバナも同一視していたのではないでしょうか。蜜柑を横半分にザクッと切ると、そこには「菊花紋」が現れます。太陽と同じような燃えるオレンジ色、かぐわしい香り、しかも萎れない強い生命力。縄文人は、橘や橙を、日月の「日」の徴として尊重されたのです。

林さんちの鏡餅 素敵です ↑

辻中公さん 初めて拝聴しましたが、とても良い感じ ↑