古語辞典で「あな」を引くと「感情の高まりから発する語。喜怒哀楽いずれにも使う」(三省堂全訳読解第三版)とあります。ホツマでは、
『両神 叔母を 称ゑます キクキリ姫も あなかしこかな』ホ4
『なく皇子の 声ききとれは あな嬉し』ホ4
『あはれ あな面白 あな楽し あなさやけ おけ さやけ』ホ7
『あなありかたや あなにゑや あな嬉しやと をかみさる』ホ17
『八咫の鏡の 御名のアヤ いとめくみなり あなかしこかな』ホ17
と云うように、良い感動を表す表現に頻出しています。「嗚呼、なんとも、実に」などの語感です。
駒形氏は、「上がる・勢い付く・栄る・熟れる・優れる・中心にある・至る」などの意、と捉え、「いさ」や「いと」を類語としてあげています。
一方の「穴」は、基本的にマイナス評価の語であり、「劣った」「下がる」「勢いのない」「空虚な」語として使われます。「穴に棲む」人々を「劣った存在」としてみなしていた表現も目立ちます。
開化天皇七年正月項に、イキシコ媛を中宮に立てる事件があり、オキケヌシが諫めます。シラウドコクミが母犯す悪評が、今も記憶されていることを知らないはずは無かろう、と苦言したのです(本号清藤訳参照)
この時のオミケヌシの憤慨は、
『汝が政事 諫めずて おもねり 君を アナにする 心汚し』ホ32 でした。
この「あな」は、「穴」だったのでしょうか。そう捉えると「天君を『ダメな劣った存在』とする」と云うかなり過激に直截的な表現です。臣としては、ギリギリの危ない一線に有る表現と云えますね。
「喜怒哀楽」それぞれに使う感嘆詞として捉えると「嗚呼なんとも嘆かわしいお立場」「いやはや前例のないご無体な」あたりの表現に留まるかも知れません。
いずれにせよ、この諫言事件でオミケヌシは、謹慎し、タカマから去ることになります。
中世以降は古語「あな」は「あら」として使われることが増えます。「あら、、や」「あら、、かな」などの形で、哀愁や後悔、はかない望みを表す表現が目立ちます。下野したオミケヌシは、自身の境遇を何と省みたのでしょうか。
(駒形一登「解読ガイド」参照)
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古神道や富士信仰に残る「あな ありがたや(し)/あな かしこし」という文言は、神徳、恩寵に対する感謝の言葉です。「あな」とは何でしょう。
中世以降は「あら」と変形していきますが、縄文時代から続く日本人の感嘆詞なのですが、その語源は、明確ではありません。
「ああ、なんとも」の略語という考え方、「あ(天)な(無)」という捉え方、あるいは逆に「あ(天)な(成/為)」という見方もあり得ます。
総じて、縄文時代では「天成(あな)」として天恵や喜びに感謝する伸び伸びとした表現が目立ち、後世には、段々と哀愁や悲しみに「天無(あな)」と嘆くシーンが増えてくるように思います。
天恵を失った世界では「あちゃー」なのでしょうか。
でも、嘆くばかりでは、情況は好転しません。「くじけず、めげず」に「あな嬉し、あな面白、あな楽し」の世の中を描いていきたいですね。
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